お嬢様は部屋に入るなりわっと泣き出した。
嗚咽だけでなく、涙を拭うときに擦れる衣類の音もすっと耳に届く。ここは不気味なほどに静かだ。空気が澄んでいるからだろうか?
外は灰色とも白とも言い難い不思議な雲が広がっている。今年一番の冷え込みだと天気予報士は強調していたが、言い当てたのはどうやら屋外だけではなさそうだ。部屋に溜まっていた冷たさが肌を丁寧に刺激した。
俺はお嬢様の背中から目が離せなかった。驚きや焦りではなく、懐かしさがそうさせた。彼女の揺れる肩を見て出会ったばかりの頃を思い出していたためだ。悪魔召喚に成功したあの日、お嬢様は今よりもずっと背が低かった。全身の震えが止まらず、立っているのがやっとという様子だった。しばらく言葉を発することができず、ただ怯えた視線を向けていた。成功を喜ぶ召喚主の方が圧倒的に多いため、首を傾げて彼女を見つめ返したのを覚えている。
「世界征服なんてしたくないわ……」
お嬢様は泣き続けている。
この壮大な家出が計画されたのは昨晩のことだった。「悪の道こそ正義」が家訓の家に生まれたお嬢様は、立派な悪党になるようにと教育を受けていたが、実際のところ、悪っぽい振る舞いが上手くなっただけで、中身の方は家族が望むような作りになっていなかった。世界征服に意気込む周囲の人間たちを見ていて恐ろしくなったのだろう。逃げ出すしかあるまいと決意させるのには十分だった。お嬢様は人と衝突するのが苦手で、争い事は避けるたちだったために家出を選んだようだが、行動の速さには俺も舌を巻いた。悪魔使いが悪魔を置いていくなど前代未聞だ。俺は必死になってお嬢様を追いかけたが、数時間ぶりに会った彼女に笑顔はなく、憎しみと怯えに支配されていた。
「離して!」
お嬢様が俺を拒絶するはずがない。やや面食らってしまい、うまく言葉を紡げなかった。怖がりなお嬢様はいつも俺にすがっていた。幼い頃は特にそうだった。怖い話を読んでしまった、悪巧みを聞いてしまったと己が抱え込んだ恐怖に耐えきれず、抱きしめてほしいとねだった。彼女に命令されると、あるはずのない魂が震えるのを感じた。何もかも忘れてしまいたいと願う子供の小さな体を抱えながら、絶望しきった彼女のうつろな目がさらなる絶望を宿さないように安らぎを与えたかった。何度でも俺を跪かせてほしかった。あなたが望む世界を共に作りたい。最良の友としてそばにいると誓ったのに、お嬢様は疑いの視線ばかり投げかける。
「連れ戻して来いって言われたんでしょう! 嫌! 私は絶対に帰らないから……!」
「違います。あなたが心配で……」
「一体何が心配なの? 悪の道を志す家に生まれたのに、世界征服を嫌がる出来損ないのことは放っておいてください」
「自分を傷つけるようなことをおっしゃらないで……」
「急いでいるの! もう離してよ……!」
「このまま逃げ続けてもいつかは追手が来ます。作戦を立てましょう。世界征服への参加を避けられるかもしれません」
お嬢様の抵抗がピタリと止んだ。
「考えがあります」
「考え……?」
「今回のこれは家出ではないと思い込ませればいい。お嬢様は逃げ出したのではなく、特訓のために遠くの地へ行ったと吹き込んでしまえばいいんです」
「はあ? 何よそれ……」
「自分はまだ力不足だから世界征服のための準備をするとでも言っておけばいいんですよ」
「でも、実際にはそんなこと……」
「反逆を企てるにはちょうどいいと思いませんか」
「反逆……?」
「世界征服を止めたいとは思いませんか?」
お嬢様は目を彷徨わせた。
「ええ、そんな恐ろしいこと、やめてほしいと思っているわ。でも、止めるなんて……」
「あなたが望めば、俺は力を貸しますよ」
お嬢様が心穏やかに過ごせるよう働くのが俺の役目だ。彼女が望む世界を作り上げるためなら、他がどうなっても知ったことではない。
「悪の道こそ正義なら、反逆だってそうでしょう。だったら、実行してみればいいんです。教わった通りにね」
彼女が家出先に選んだのは最果ての地と呼ばれる雪深い国で、大雪に慣れてないお嬢様の足元はおぼつかず、宿にたどり着くまでに想定より倍の時間がかかることとなった。
暖炉の火が部屋に温もりを与えても、お嬢様の心は冷え切ったままだった。ソファーに深く腰かけて、ぼんやりと火を見つめながら涙を流している。
「私にはわからないの。そんなに魅力的なのかしら、世界征服って……」
「誰も成し遂げたことがありませんからね。憧れを持たせる魔力があるんでしょう」
「……ねえ、本当に世界征服を止められるの?」
お嬢様は恐る恐る俺を見上げた。
信頼を滲ませる彼女の瞳は、悪魔の心の奥底に炎を宿らせる。
「あなたが望めばね。俺に命じてくだされば、精一杯働きますよ」
「反逆……」
お嬢様はぽつりと呟いた。
「反逆なんて、そんな……」
「怖いのですか?」
俺は微笑んだ。
「反逆なんて悪いことは出来ないとお思いですか?」
「私はただ、世界征服を止めたいだけで……」
お嬢様はソファーから立ち上がり、静かに涙を流してうろたえている。
「一般的に反逆は悪だと思われていますが、お嬢様は良きことをなそうとしている。そのために必要になっただけですよ、悪と呼ばれているものがね」
「で、でも」
悪魔の言葉に動揺を見せるのは、悪魔使いとして致命的なミスだ。
目を見開き、青白い顔をして黙り込んでしまったお嬢様にゆっくりと近づいた。
「一体何を恐れることがあるのでしょう? ああ、怯えないで。怖いのなら安らぎを与えます。抱きしめてほしいと言ってください。恐怖など一瞬で忘れてしまいますよ。さあ、ご命令を……」
「やめて! 近寄らないで……!」
「もう遅い……」
腕の中に引き寄せると、彼女の体の強張りが解けていくのがわかる。力が抜けきってしまい、支えていないとひとりでは立っていられないだろう。俺はふらつく体を強く抱き締めて耳元に口を寄せた。
悪魔の囁きに、お嬢様は耳を傾けてしまう。
「悪いこと、たくさんしましょうね」
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