隙間から

 昼間だというのにその部屋は夜のようだった。カーテンは締め切られ、窓にはチラシや新聞紙が貼りつけられているためか、一切の光が差し込まないようになっていた。外では透き通った青空が広がり、赤や黄色に色づいた葉が見頃を迎えているのに、美しさを追い出してさっさと冬眠したいと言いたげな様子であった。

 部屋のいたるところに科学書や魔術書が山積みにされていて、来客用のソファーの上にまで散らばっている。依頼主は面倒くさそうにソファーから本を拾い上げると、書斎机の上に置き直し、先ほどまで本の住処となっていた場所に座れと指示した。

 ランプの穏やかな光だけが部屋の中にあり、依頼主の顔を照らしている。暗闇に浮かぶ彼の不機嫌そうな顔はまるで亡霊だ。白衣を着ているせいか、科学者の幽霊と対峙しているような気持ちになる。憂いを帯びた顔つきをするが、時折忌々しげに眉根を寄せ、苛立ちのこもった眼光をこちらに浴びせかけている。

 彼は自分よりもずっと若者だった。青年と呼ぶには幼いが、少年の面影は消えつつある。彼からしたら、自分は年寄りに見えるのだろうなと魔術師は自身の白髪をそっと撫でつけた。

 体調はどうかと声をかけたが、悪くなければ依頼なんかしないとぞんざいに返された。

「魔術師のあんたがここに来たってことは、依頼を受けるってことでいいんだよな?」

「ああ。不可思議な者たちが関わっているかもしれないと聞いた。私は彼らに関する知識を提供できる」

「専門家ってわけね」

「依頼内容を詳しく聞きたいんだが……」

「嫌だね」と彼は締め切られたカーテンの方を向いて言った。

「どうして答えるのが嫌なんだい」と魔術師は穏やかに問いかけた。しかし、彼は黙ったままだった。彼の身に起こったことを何度も尋ねたが、はぐらかしたり、むっとした顔をしたり、心の中を覗かれたくないと鍵をかけてしまったようで、魔術師は閉ざされた心の扉の前に立ち尽くすしかなかった。

「お前らに僕の気持ちなんかわからないよ」

「では質問を変えよう。どうして部屋を暗くしている? 外はいい天気だ。窓を開けないのはなぜ?」

 依頼主は途端に身を固くした。同時に、ぎいぎいとドアが軋んだ音を立てて開いた。

 

 魔術師の元に依頼が飛び込んできたのは一週間前のことだった。厄介な客なんだと肩をすくめながら、知り合いの事務員が依頼状を渡してきたことを覚えている。とにかく手がつけられない。いわゆるクレーマーで、理不尽な物言いをするだけでなく、すぐに怒りをあらわにして感情的になる。依頼内容の詳細を聞いても口を開こうとしない。苛立ってばかりの依頼主に皆嫌気がさして依頼を受けるのをやめてしまった。今までに数名の魔術師が対応しようとしたが、うちの魔術師もだめでね、と事務員は苦笑しながら依頼状を顎で指した。

 手渡された紙に目を通すと、依頼の内容は「治療」だとわかった。人間ではない存在に対応し、依頼主の抱える問題や悩みを解決することを魔術師たちは「治療」と呼んでいる。夏頃から身の回りで怪異現象が起こるようになり、日常を取り戻したいとのことだった。不可思議な者たちによる仕業かもしれないと魔術師に助けを求めたが、どういった現象に悩まされているのか詳しくは書かれていなかった。依頼主は若い科学者で、所属していた研究機関に秋口から通えなくなってしまったと記載されていた。

 不可思議な者たちへの対処経験が多い魔術師といえば君だと思ってねとにこやかに事務員は話し始めたが、褒め言葉を聞いてもちっとも嬉しくなかった。厄介な依頼を嫌な顔をせずに受けてくれる魔術師が自分しかいなかっただけだとすぐに気づいてしまったからだった。この知り合いは極めて難しい依頼内容や困った依頼主からの仕事を寄越すことが多く、そういった案件を今までに数え切れないほど担当してやったのだった。

 

「ドアを閉めろ……!」

 彼の叫び声を聞き、魔術師は音のする方を振り返った。ドアの隙間から、黒い影がじっと佇んでいるのが見える。部屋に入ってくる様子はない。影に目はついていないが、ただただ依頼主を見つめていることはわかる。魔術師はゆっくりと立ち上がってドアを閉めた。その影が不可思議な者だとすぐに気がついた。攻撃性は感じられないが、依頼主をいたく気に入っていて、視線は最後まで魔術師に向けられなかった。鍵をかけてくれと弱々しい声が飛んできたため、魔術師はそれに従った。

 額に汗を浮かべた依頼主は、みっともない姿を見せてしまったと羞恥に苛まれているようだった。乱れた呼吸を整えようと必死であったが、取り繕うとすればするほどうまくいかず、怯えを含ませた眼差しを魔術師に送った。

「あれは確かに不可思議な者だった。君をほしがっている。いつから見えるようになった?」

「夏の終わり頃」

 先ほどとは打って変わって、素直な受け答えに少々驚いた。ソファーでうずくまっている彼のそばまで向かい、膝をついて言葉に耳を傾けた。

 覗き見をしてしまった。

 ある夏の暑い日、街を歩いていると、隙間の世界に消えていく若い男を見かけたのだ。その男は休みがちになっていた同僚で、やせ細り、病人のようにやつれてしまっていたにも関わらず、軽やかな足取りでどこかに向かっている。幸せを胸に抱えた表情と体の不健康さに違和感を覚え、彼の後を追いかけた。すると、路地裏にある古びたドアの中に吸い込まれるように消えてしまったのだった。そのドアの隙間から光が漏れていることに気づき、思わず中を覗いてしまった。そこは部屋というよりも儀式を行うための狭い洞窟のような場所だった。地面は花で飾られ、壁には呪文のような文字や模様が絵の具で描かれている。同僚は魔法陣が描かれた石畳の上に寝かされ、何者かと性交していた。相手は人間ではなかった。黒い影のような生き物が覆いかぶさっている。同僚は愛おしそうにわけのわからない者を見つめている。か細い喘ぎがこちらにまで聞こえてきて、怖くなって目をそらした。夢でも見ているのか、暑さに頭がやられたに違いないと、勇気を振り絞って再び視線を戻したときにはすでにドアは消えていた。翌日、同僚は退職したと聞かされた。

 それからというもの、同僚と黒い影の交わりが忘れられず、あの同僚がもしも自分だったらと妄想するようになった。いけないと思うのだがやめられず、想像すればするほど体が熱くなってくる。覗き見をするのが癖になってしまい、このまま体が消えて、誰にも見つからずに人々の生活を垣間見ることができたらと強く望むようになった。

 すると、夏の終わりから黒い影に遭遇することが増え、隙間から視線を感じるようになったのだ。

 隙間に取り憑かれたんだと彼は言った。黒い影が現れる様々な場所の隙間が怖くてたまらないのに、強く惹かれてしまう。誘惑には負けないと思っていたが、いつかドアの隙間を広げて自ら不可思議な者を招き入れてしまうのではないかと不安げにこぼした。

「隙間が怖いと言ったら馬鹿にされるかと……。それに、得体の知れないやつに心惹かれるなんておかしいって笑われるんじゃないかと思ったんだ」

「君は治療を望んでいるんだろう。我々魔術師はその依頼を馬鹿にしたりはしない」

「ここに来た魔術師たちは、この部屋を見て気味悪がっていた。でも、仕方なかったんだ。窓に紙を貼りつけたのも、外にいるから、こっちを見ていて、カーテンの隙間が、隙間からあいつが……! 不可思議な者の視線が嫌で、僕は必死だったのに……!」

「君が何も言わなければ、知ることが限られてしまう」

 依頼主は悔しさを耐えるように唇を噛み締めていたが、じろりと鋭い視線を投げかけた。

「……じゃあ、これからはあんただけに話すよ。不可思議な者の専門家なんだろ。僕のために働けるよな」

「もちろん、依頼を受けるためにここに来た。このことは私に任せてくれないか」

 彼は手を伸ばし、犬の毛並みを整えるように魔術師の頭を撫でた。

「いいか、不可思議な者から僕を救ってみせろ」

 魔術師は小さく頷いた。

 指に絡みついた白髪を面白そうに眺めて、彼は満足げに笑った。

 

 窓に貼りついていた紙類は取り除かれたが、相変わらず彼の部屋は暗かった。窓から見える木々の葉は全て散ってしまい、空は厚い雲に覆われて今にも雨が降り出しそうだった。裸木の間を風が吹き過ぎる音を耳にしながら、魔術師は今朝確認した天気予報を思い出していた。今日は夕方から夜にかけて雨の予報。冷え込みがひどくなり、冬の深まりが感じられる。慌てて外出したために傘を忘れてしまったが、雨が降り出す前に帰れば問題ないだろう。

 この数ヶ月間、人探しの依頼が急増していると知らせにやってきたのはあの事務員だった。とある研究機関に夏頃まで勤めていた男性が捜索対象者になっており、その友人たちも同時期に消息不明になっていると報告書には書かれている。同じような依頼は他にも見られたが、捜索対象者の共通点に事務員は気づいたのだ。消息不明になったのは、あの厄介な依頼主が所属する研究機関に何かしら関わっていた人々である。勤務者や取引先など、あの研究機関に関係のある者ばかりが消えていくなんて、偶然にしてはおかしいのではないかと、魔術師に報告したのだった。

 ああやだ、不気味だねえと事務員は両腕をさする。もしかしたら、怪しい儀式でもやっているんじゃないのと顔を歪ませた。

 おそらく、報告書に書かれているのは依頼主が言っていた件の同僚なのだろう。この知り合いの言うことはあながち間違っていないかもしれない。黒い影は彼を眺めているだけで何の動きも見せていないが、隙間に引き込もうとしているのは確かだった。影の執着に魅せられて、依頼主の方が先に折れてしまうかもしれない。影を恐れながらも強く惹かれている自身の葛藤と戦っている様子からするに、隙間の世界に自ら飛び込んでしまうのも時間の問題だ。引き続き情報を流すよう頼み、彼の元へと急いだ。

 予定になかった訪問に依頼主は驚いていたが、「息を切らして、そんなに僕に会いたかったの」と冗談っぽく笑った。笑いごとではないのにと魔術師はため息をついた。

「僕が黒い影に連れて行かれるんじゃないかって不安だったんだ?」

「ああ。もっと早くに手を打っておくべきだった。すまなかった」

「文句を言ってやりたいけど、まあ構わないよ。幸いにも、僕はまだここにいるからね。それに、あんたがいなかったらもう向こう側へ行っていたかもしれないし」

 彼は自嘲的な笑みを浮かべたが、すぐに神妙な顔をして言った。

「どうして見るのがやめられないんだろう」

「君が隙間を好むようになったわけではない。不可思議な者が君を手に入れようとして、隙間に惹かれるよう操作しているだけだ」

「僕が操られているってこと?」

 依頼主が魔術師の腕を掴んだ。

「そうだ」

「だったらどうすればいい?」

「方法は二つある。ひとつは敵を見つけて捕まえること」

「敵? あの黒い影のこと?」

「いや、黒幕だ。君の同僚が姿を消したことは決して偶然ではない。仕組まれたことだ。君が所属している研究機関、もしくは敵対する組織のようなところが不可思議な者を利用して、何かを企んでいる可能性が高い。……まだ断言はできないが、君が目撃した光景が儀式の一部だとしたら、何らかの目的のために、誰かが人間を不可思議な者に捧げている。君の同僚は生贄にされたのかもしれない」

「誰がやったのかも目的も今はわからないんだろ」

「ああ。まださっぱりだ。すまない」

「でも、黒幕ってやつを捕まえれば黒い影が僕を追いかけてくることもなくなるってわけか。その調査は継続してやってくれるんだろうね?」

「もちろんだ」

「依頼料を上乗せしておくよ。僕のために働いてくれ」

 依頼主はにんまりと笑い、体を寄せた。

「僕を安心させて」

 自ら手を伸ばし気まぐれに触ることはあっても触られることには敏感で、物を渡す際に指が触れ合っただけでも眉をひそめ、拒絶を表していた出会いの頃と比べて、最近では甘えるような行動をとることが増えたと感じる。逆らわない存在が珍しいのか? 彼は傲慢で感情のコントロールが下手なところがあるが、指示通りに動いていれば問題なく物事が流れる。家来になったつもりはないが、従うことは苦ではなかった。

 魔術師が口を開く前に、依頼主が話の続きを促した。

「もうひとつの方法は?」

「魔力を流し込む」

 依頼主は首を傾げて魔術師を見上げた。

「なにそれ。どういう意味?」

「知らないのか?」

 彼はむっとした顔つきになった。

「魔術書は読んだけど、不可思議な者について書かれた本ばかり取り寄せたから、何でもかんでも知っているってわけじゃないよ」

 びゅうびゅうと風の吹く音がした。彼が温もりをほしがるなら、第二の提案もすんなり受け入れるかもしれない。

「君は今不可思議な者に魅了されている。隙間が気になって仕方がないように、あの黒い影も君の心の隙間を自分自身で埋めてしまいたいと思っている。心を乗っ取って、一種の催眠状態に陥れ、自分の元へ来るように仕向けるんだ。だが、催眠状態を解くには、より強い魔力があれば対抗できる。意識を塗り替えてしまえばいい」

「ふうん。魔力を流し込んで操られた状態を打ち消せばいいってわけね。それで、一体どうやるの」

「魔力の混じった体液を与える」

「へえ、飲み込んだらあんたに夢中になっちゃうってわけ? 面白いね」

 平然を保とうとしていたが、声は震えている。俯いて、床から視線を上げようとしない。黒髪から覗く耳が赤く染まっている。それでも、寄り添った体が離れることはなかった。

「身体的な接触があるから無理にとは言わない。あとは君が決めなさい」

「僕が決めるの?」

「不可思議な者から救えと言ったのは君だ。そのために必要であれば、知識や力を喜んで提供しよう。君の言葉があれば、私は従うだけだ」

 二人の視線が強く交わり、しばらくじっと見つめあった。

 彼はゆっくりと深い笑みを作った。

「僕を傷つけたら許さないからな」

 

 ベッドに沈んでからも、彼はにやにやとした笑みを浮かべたままだった。

「いい大人が夢中になっているのを見るのって最高だね」

 頼むから黙っていてくれないかと言いたくなった。

 目を細めると、彼はますます嬉しそうな顔をする。感情の動きが把握しにくく、常に冷静さを保っている魔術師が熱に浮かされたように魔力を与えている。目の奥に興奮を潜ませているが、暴力性はなく、むしろ丁寧に奉仕を続ける姿が彼にとっては新鮮なのだ。

「集中してくれ」

「ちゃんと飲んでいるじゃないか。ねえ、あんたのその顔、もっと見せてよ」

 目元を指の腹でゆっくりとなぞられる。ささやかな刺激であっても快感が呼び覚まされ、それはじわりと全身に広がった。

 労わるように髪を撫でながら彼は言った。

「まだ足りない………」

 流し込まれた魔力には甘みがある。初めはおずおずと舌を吸っていたが、魔力の混じった唾液が口内に広がると、もっとほしいと自ら舌を伸ばすようになった。舌を押しつけて魔力を吸わせると、気持ちがいいのか、体から力が抜けていく。

 シャツの裾から手を入れて脇腹へとゆっくりと手を這わせると、身をよじって逃げようとする。慈しみを持って触れているのに、容赦のない快楽に変わってしまう。体も吐き出す息も熱い。彼の目尻からは涙がこぼれていた。頭を撫でると、もっと触ってと掠れた声でねだられる。細い髪の毛が指に絡みついた。

 常に落ち着きを維持していた魔術師が若者に翻弄されて間抜けな姿を晒していると依頼主は思っているらしいが、実のところ魔力に乱されているのは依頼主の方だった。魔力の供給には強い快楽が伴う。ずるずる引っ張られないようにと理性的な判断や行動をとっているのはむしろ魔術師の方で、依頼主は魔力を飲み込めば飲み込むほど、むず痒いような感覚にとらわれ、どろどろとした熱を溜め込むようになり、体を震わせて喘ぐばかり。魔力に親しんでいない者にとっては辛いだろう。しかも、不可思議な者から引き剥がすために意識を塗り替えるとなれば、それなりの量が必要だ。餌を与えるように何度も口づけをすると、彼は素直に魔力を飲み込んだ。口の中が甘みで満たされると心地よさそうに表情を緩めるが、ひどく喉が乾いてしまうようで、足りないと泣きながら繰り返し呟いている。

「苦しい……」

「やめようか?」

「い、嫌だ」

 体を丸めて呼吸を落ち着かせようとしているが、吐き出される息はいつまで経っても荒いままだった。

「熱くて苦しいのに、なんで、やめないで……」

 腹を撫でると、こらえきれなかった喘ぎが喉の奥からもれた。戸惑いが潤んだ瞳の中に渦巻いているが、拒むことはなかった。

 何度も体を震わせ、快感に溺れているのがわかっていてもなお、魔術師は丁寧に魔力を与え続けた。

 まるで呪いを施しているようだと思う。直接的な傷をつけなくとも、心に爪跡を残すことは容易い。だが、同時に、彼に呪いをかけられているのも事実だ。扱いづらい客だと思うこともあったが、今やすっかり目が離せなくなっている。

 ぼんやりとこちらを見つめながら、彼は口を開いた。

「隙間の世界を見たときからずっとあの黒い影に惹かれてしまっていたけど、今はあんたがいい……」

 雨粒が窓ガラスを叩き始めた。遠くで雷が鳴っている。

「帰らないで。あの夏の日と同じことをして」

 ぎいと濁った音を立ててドアが開いた。鍵を閉めるのを忘れていたと、魔術師ははたと気がついた。咄嗟に依頼主の目を手で覆う。影がこちらを覗き込み、ぐったりとした彼を眺めていたが、何かに気づいたように体がわずかに揺れた。

 早く、と声がする。目を覆っていたはずの手に彼の指先が絡みつき、ぐいと引き剥がされる。不意に小さな疼きが体を駆け抜けて、魔術師は思わず息を詰まらせた。こちらの注意を引くために、すがりつくようにして彼が手首に歯を立てている。

 噛み跡のついた肌を一瞥し、もう一度ドアの方を見ると、そこには誰もいなかった。