良い夢を

 首元に薄く浮き出たあざを見せると、「そりゃあ本の仕業だよ」とオルニトは言った。

「本?」

「そう、呪いの」

「は……」

「何を驚いているんだ。よくあることだろう。現に、ここにある本はその類のものだよ」

 イジュは恐る恐る周囲を見渡した。案内を受けてやって来た地下室には、巨大な本棚に大量の本が詰め込まれて並んでいる。奇書好きのイジュならすぐにでも駆け寄って頬ずりをしてもおかしくないはずだが、図書室にしては気味が悪く、空気もどことなく淀んでいる。近寄ることさえためらわれ、背に冷や汗が静かに流れた。

 外は春の雨で満たされ、時折生温い風が吹きつけていたが、地下は肌寒く、雨音がずいぶんと遠くに感じる。

 厳重に管理されたこの所蔵庫でうっすらと笑みを浮かべるオルニトは妖怪じみている。身長が低く、見た目は少女のようであったが、訪ねた際に酒を飲んでいたところを見ると、成人しているのは間違いないだろう。長い付き合いになるが、素性はほとんど把握していない。だが、怪異好きで、自身を本の看守だと言って皮肉っていることは知っている。

「怪異情報収集家なのに相変わらず怖がりだね」

「この国の怪異は心臓に悪いんだ」

 オルニトとは怪異好きが集まるSNS「物好きのサバト」で知り合った。イジュはサラリーマンとして生計を立てながら、休日は怪異の情報集めをして過ごしている。学生の頃から海外の史料を見るのが好きだったが、それが拗れて奇書と呼ばれる書物に手を出すようになり、収集した情報をネット上に報告するようになった。イジュが特に興味を持って扱うのは海外の悪魔関係の史料で、悪魔が書き残した呪いの本(現地に足を運ぶのは難しいため、デジタルデータを閲覧することが多い)と呼ばれるものも読んだことがあるが、不可思議で恐ろしい事件に巻き込まれたことは一度もない。目の下のクマが年々色濃くなっているのは、呪いではなく寝不足のせいだ。

 オルニトに指摘された通り、本来は怖がりで好奇心のなすがままに飛び込んでいく性格ではないが、お化けは怖いが悪魔には恐怖を感じにくいアンバランスな性質のために、三十を過ぎても怪異に怯えずこの趣味を続けていられるのだろう。

「物好きのサバト」を通じて、イジュは曰くつきの本を管理しているオルニトに興味を持っていたが、怪異よりも映画の話で盛り上がり、リアルに会ったのは怪異関係のオフ会ではなく映画祭が初めてであった。それから、もう十年近く経つ。

 オルニトの元に駆け込んだのは、自分の身に書物関係の怪異が降りかかったことが理由だった。怪異と奇書に関して圧倒的な知識量を持つオルニトを頼ろうとするのは当然だろう。とはいえ、怪異を扱っているからといって、彼女は普段からその類の相談事を受け付けているわけではない。しかし、連絡を取ってみると、すんなりと再会の日が決まった。直接家に来てほしいとメッセージが送られてきたため、彼女の自宅へと向かった。付き合いが長いとはいえ、怪異好きで映画好き、昼間はどこかで働いているが何をしているかはよくわからず、やり取りはほとんどネットを通して行われ、近場には住んでいるが直接顔を見て話すのは年に一度あるかないかといった人間を家に招き入れて大丈夫なのだろうかと尻込みしたが、オルニトは特別気にしていなかったようだ。

 怪異の手土産ができたと気楽に考えようとしたが、どうもそれだけでは話が済まないとイジュは薄々勘づいていた。体中に文字が這い回る夢を見るようになってから一ヶ月ほどが過ぎた頃、首に縄のようなあざが現れ、金縛りにも頻繁にあうようになってしまった。

 その夢を見るようになったのは、亡くなった悪魔学者の書斎整理に関わるようになってからだった。きっかけは、学者との生前の交流と信頼によるものが大きいが、一番の決め手は故人の弟子からの依頼であった。悪魔学者の別荘として使われた家には大量の悪魔学関係の書籍や魔術品が残され、若い弟子たちが何人も片付けに赴いたが、二週間を経ても半分も終わらず、埒が明かないとイジュの手を借りなければならなかった。怪異に首を突っ込んでいる過程で故人と親しくなったが、さらには弟子とも顔見知りになり、その弟子とは年が近く、話も合い、加えて、イジュが悪魔関係の遺物や古文書に詳しいとなれば、学者の弟子ではなくとも書斎の整理を任せられるだろうと判断したのも頷ける。

 書斎には本や美術品、悪魔の召喚に使われる道具などで埋め尽くされており、全てを片付けるのには骨が折れた。

 学術書や召喚具が研究機関や同業者の元へと分配され、物の行先がほとんど決まると、弟子や見習いたちはイジュにも何か分け与えようと取り計らってくれた。書斎点検の最終日、イジュは弟子たちに感謝を述べ、故人との思い出を振り返りながら一人で意気揚々と残された悪魔学の書籍を眺めていた。

 ダークブラウンの床に、古びた本が置かれていると気づいたのはその時である。表紙に書かれている文字はほとんど消えかけていた。本棚に残っている数十冊が最後だと聞いていたが、出入りしている若手の悪魔学者たちの忘れ物だろうか。怪訝に思いながらも手にとって頁をめくると、見たことのない言語が並んでいた。記号の羅列のようでもあるが、おそらく文章なのだろう。

「これは一体……」

 イジュが紙面を指の腹でなぞると、暗号めいた文字列が目覚めに身じろぐようにわずかに揺れた。あくびをするときの緩慢な動きでそれらは泳ぎ出し、イジュの指先に集まると、彼の肌を優しく撫でるように這い上がった。文字はあくまでもゆったりとした、眠気が忍び寄る心地を思い出させる動きで彼の体を侵食し始めた。

 すぐさま叫び声を上げて本を床に放ったが、衝突の音は聞こえず、静寂が書斎を支配し続けていた。本どころか、動く文字もどこにもなかった。蓄積された疲れが幻覚を見せたのかもしれないと何もかも忘れようと努めた。だが、消滅してしまった文字は夢に現れた。腕に絡みつき、鎖骨へと届き、腰や腹にまで纏わりついたそれは、イジュの抵抗を穏やかに奪い去った。夢の舞台はいつもあの悪魔学者の書斎だった。

 文字に喉元を撫で上げられ、きつく全身を縛られると、暗い炎が体の奥底に灯るようでひどく動揺してしまう。

 首に浮かぶあざが縄の形をしているのは、夢の中で捕らえようと働く呪いのためなのだろうか。

「オルニト」

「なんだ?」

「ありがとう、話を聞いてくれて……」

 こんな切羽詰まった状況でオルニトと顔を合わせることになろうとは、全くの予想外だった。できることなら、彼女とは怪異イベントのオフ会で会いたかった。怪異や映画について、あのシーンが熱かっただの、どこそこの国でこんな史料を見つけただの、ただただ語り合いたかった。

「積極的には怪異の相談事を受け付けてないんだろう? その、急に悪かった。正直なところ、信じてもらえるかどうか心配だった」

「信じるも何も……。お前は呪いの存在を信じていなかったのか?」

「今まで得体の知れないものや恐ろしい目にあったことがなかったから、どこか他人事だったよ」

「でも、これを機にやめる気は無いだろ」

「ああ、そうだな。本は好きだしね」

「全く、怖がりなのか無謀なのかわからんな……」

「そりゃあ、今すぐに何もかも投げ出してゆっくり眠りたいよ。でも、こちらが縁を切ったつもりになっていても、怪異が手放してくれるとは限らないだろ。だから立ち向かうしかない。たとえ怖くても、オルニトといれば乗り越えられる気がするから、ここに来たんだ」

 ふと、前にもこうしてオルニトに泣きついたような気がして、イジュはそっと首を傾げた。普段イベントでしか顔を見ないのに、おかしな話だと思う。

「なんだか、以前にも同じようなことがあった気がしてきたよ」

「……なんだって?」

「いや、俺の勘違いだ。物好きのサバトで君をよく見かけるから、頻繁に会っているんじゃないかと錯覚を起こしただけだ」

 オルニトの目に一瞬戸惑いが生まれたが、すぐに消え失せた。ため息をつくと、視線を彷徨わせて何かを探し始めた。

「ところで、その呪いだけど、このまま放ってくとまずい。ヤギ、いるか?」

「お呼びですか」

 音もなく背後から現れた男に、イジュは叫び声を上げそうになった。大きく揺れた肩を見て、男は驚かせたことへの謝罪を述べてから、わずかに微笑みを浮かべた。

 名をヤギと言ったが、その姿は夜を身にまとった大型犬といった格好で、オルニトと並ぶと護衛を任された番犬のように見える。落ち着きが心身の隅々にまで染み渡っており、首のあざを見ても大げさな反応をせず、黄土色の目をオルニトに向けて静かに指示を待っている。

「紙は?」とオルニトが尋ねた。

「ここに」

 ヤギが厚紙を差し出した。文房具店で売っているような、なんの変哲もない用紙に見える。

「よし、じゃあ始めよう」

「始める?」

 イジュが問いかけた。オルニトは無言で頷き、ヤギから厚紙を受け取った。

「すみませんが、首元を見せていただいても?」とヤギが続けた。

 イジュはシャツのボタンを二つ外し、言われた通りにした。彼の黄土色の瞳は鈍く光る月のようだった。見上げるとその印象がより強くなる。

 彼は一体何者なのだろう。オルニトの同居人だろうが、一階のリビングに人の気配はなかった。同居人といっても恋人同士には見えず、年の離れた兄でもなさそうである。友人だろうか。彼女に付き従う姿は用心棒のようでもあり、主人と従者だと言われた方が肯ける。ネットの知り合いには個人情報をむやみやたらに聞いてはならない暗黙の了解があるが、それを除いたとしても、初対面の相手にどう声をかければいいのかわからず途方に暮れた。

 じろじろと眺めるのも悪い気がしたが、黄土色の優しげな眼差しからどうしても離れられずにいた。甘い蜜を分け与えられているような、ぼんやりとした心地に浸り続けてしまいそうになる。どろりとしたたる蜜がじわりじわりと流れ込み、動くのも億劫になる程の甘い酔いに絡みつかれ、腹の底が熱くなる。

 ヤギの指先があざに触れた。かさぶたを剥がすように、爪がわずかに肌に食い込んだ。一瞬くすぐったさが広がり、思わず身じろいだ。

「ああ、取れましたよ」

 ヤギはオルニトが持っている紙の上にあざを離した。すると、あざは分裂し、黒々とした文字となって暴れ始めた。

「ほら、やっぱり。あざは縄の痕じゃない。文字の集合体だ。だから本の仕業なんだよ」

「でも、肝心の本は消えたんだぞ」

「消えてないよ。お前の夢の中にある」

「夢?」

「この文字は悪魔の間で使われています。夢の中に入り込んだ本が強い力を、そう、呪いでもってあなたの気を引こうとしているのですよ。夢での影響が体に現れてしまったんですね」

 そう言うと、ヤギは紙を見つめた。

「愛しい魂よ。お前は私のそばにあり続けるはずだ。そのはずだったのに、ああ、この手をすり抜けていくことは許さない。ならば、お前の魂に食らいつき、飲み込んでやろう。さすればお前と私はどこまでも……。そのような内容が書かれています」

「人違いだな」とオルニトがぼそりと呟いた。

「というと?」

「お前が見つけた本は悪魔が書き残した日記だろうな。悪魔学者が過去に契約した悪魔のもので間違いない。部屋にあったのなら、学者先生は中身も確認したんだろうが、悪魔の想いを知っていてなお知らぬふりをした。悪魔に魂をやるわけがないからな。問題は、この悪魔が魂を狙っていたことだ。この点に関しては知らん振りはできなかった」

「どうしてわかるんだ?」

 オルニトは顎で紙を指した。悪魔の言葉が読めるのか?

「悪魔が書き残した本は、人間が理解できる言葉で書かれていることが多い。だが、例外もある」

 これが例外というわけか。

 イジュはじっくりと文字を見下ろした。

「この悪魔は悪魔学者の手によって封じられた。亡くなった後に本が現れたのは、封じた本人、つまり学者の魔力が弱まったことが理由として考えられるだろうが、悪魔自身ももう抵抗する力が残っていないんだろう。想いを閉じ込めた本だけが残った。運が良いのか悪いのか、偶然居合わせたお前が拾った。学者の書斎で。この文字たちはお前を件の悪魔学者だと勘違いして執着しているんだよ。だから、人違い」

「人間の見分けくらいつくだろう……!」

「もう判別ができないんだ。普段ならやらないことをやってしまえるんだな、呪いってのは」

 オルニトは肩をすくめた。

「今夜にでも決着をつけよう」

「え?」

「回収するんだ。本は私がもらってもいいか?」

 イジュはゆっくりと頷いた。弟子たちの計らいで、悪魔学者が所有していた本をもらえることになっている。その一冊が呪いの本でも問題はないだろう。どう扱うかもこちらの好きにしていいはずだ。

「ああ、もちろん……」

「決まりだな」

 オルニトはヤギに紙を手渡した。

 オルニトの目つきが鋭くなったのと、ヤギが紙ごと悪魔の文字を咀嚼したのは、ほとんど同時だった。

 

 夢の中で文字が体を這い回っている。小さくて黒い無数のそれは、光を求めて群がる虫のようだった。服の隙間から入り込んだ黒々とした文字に時折体を強く締め付けられると、悪魔の残した怒りと悲しみに圧迫されて息苦しくなる。だが、しばらくすると、文字はゆっくりと体の隅々を行き来した。その穏やかさは子守唄を思い出させた。眠りに誘われそうになるが、再び文字の動きは激しさを増し、荒々しい情念をぶつけられた。指先すら動かせず、なす術がなかった。床の上に転がされて、文字に体を締め上げられる瞬間に生まれる仄暗い喜びに戸惑い、恐怖し、黙ってやり過ごそうとする。今までと同じ夜の繰り返しだった。

 だが、異変は絹を裂くような音と共に訪れた。その音はまるで叫び声のようでもあり、紙を破る際に発する音のようでもあった。イジュはその正体を反射的に目で探した。

 薄暗い書斎に、月が浮かんでいる。地下室で見上げた二つの月だった。夜を着込んだその人物には見覚えがあった。男はゆっくりとイジュの服をはだけさせ、床に投げ出された体に覆いかぶさって文字を食らっていた。

 体に纏わりついた呪いを丁寧に剥がしていくヤギを、イジュは呆然と見つめていた。肌の上を滑る彼の舌は滑らかだった。歯を立てないようにと気遣いながらも、容赦無く文字を追い詰めていく。目眩がする。

 引きつった表情を見せるイジュに、ヤギは穏やかな口調で言った。

「愛しい魂……」

 文字が全て飲み込まれるとようやく体の自由がきくようになったが、イジュはヤギに組み敷かれたままだった。全身が水を吸ったように重く力が入らない。どろりとした黄色の瞳には、仄暗い慈しみが溶け込んでいる。

「私には、呪いを残したあの悪魔の気持ちがわかる気がします」

 再び空間を裂く音が聞こえた。床にぱっくりと亀裂が入り、イジュは暗闇へと転げ落ちた。

 目を開けると、ぼろぼろの本が一冊倒れているのが見える。イジュにはひと目でわかった。悪魔学者への想いが綴られた悪魔の日記であり、自分を苦しめた呪いの本に違いなかった。恐る恐る本に手を伸ばし、中を覗き込んだ。悪魔語は書き残されていたが、あちこちが虫に食われたようになっていて、文字が抜け落ちているページが多く見受けられた。黒々とした言葉が這い出る様子はなく、黙り込んでいる。

 ぼんやりとした視界が次第に鮮明になると、起き上がって周囲を見回した。ここはもう書斎ではなかった。立ち並ぶ本棚に見下ろされている。様々な悲しみや怨念にまみれた呪いの本が、しんと静まり返った部屋の中で息を潜めている。オルニトの図書室だ。オルニトはどこだ? イジュは自分の服の乱れに気づき、いまだ悪夢を見続けているのではないかと恐ろしくなった。

「これで三度目です。オルニトがあなたを助けたのは」

 薄闇からヤギが現れてそう言った。穏やかな黄土色が嬉しそうに細められた。

「オルニトはあなたを気に入っている」

「俺はこんな目にあったことは一度もない」

「忘れてしまっているからです。オルニトが記憶に細工をした。恐怖を取り除き、平穏を与えるために」

「なんだって?」

 イジュは硬直したまま、ヤギを見つめた。

「オルニトにとってあなたは大切な友人。奇書に喜ぶあなたを珍しく思うのでしょう。彼女に本の看守を命じた人間たちは呪いの本を恐ろしく思い、彼女のことも怖がって近寄らなかった」

 ヤギはイジュに歩み寄り、柔らかな笑みを浮かべた。

「オルニトは幼い頃から本の管理人として活動していました。自分を看守だと皮肉っていますが、呪いを、本に込められた感情を、ときに目を背けたくなるようなものであっても読んで探ろうとする。それが彼女なりの供養なのでしょう。まあ、元は記憶への干渉力に目をつけた奴らがこの役目を与えたのですが……。その力を使えば呪いを無力化し、この世の苦しみを全て忘れさせ極楽浄土へ連れて行けると思っていたのかもしれません。しかし、力は完全なものではない。だから、私が存在する。私とオルニトはいわば表裏一体。安らぎと破滅。私はときに怪異を食らい、破壊をもたらす。彼女を傷つける者は誰一人として許さない。……この話をするのは二度目ですね」

「三回目ではないのか……?」

「あなたが初めて遭遇した怪異はなかなかの大物でしてね。あなたは発狂してしまい、話をするどころではなかった」

「に、二度目は……」

「恐怖に囚われ続け、数日間オルニトに泣きすがっていました。何もかも忘れたい。何も考えられなくなるように、自分を痛めつけてほしいと言っていた」

 イジュはうつろな目で男を見上げた。体の震えが止まらなかった。

「それで、どうしたんだ……」

「オルニトが嫌がっていたので私がやりました。縄で縛り上げて手足の自由を奪い、それからゆっくり話を……」

「いや、もういい……」

 顔色が一層青白くなった。

「ヤギ、余計なことを……」

 突然、苛立ちをくすぶらせた声が暗闇から届いた。その声はどこか悲しげであり、泣き出しそうな響きを含んでいる。

 二人は会話をやめ、暗がりに視線を向けた。オルニトだ。イジュは彼女を一目見ただけで心に光が戻ったような気分になり、安堵のため息を無意識に漏らしていた。

「頼んだのは本の回収だけだっただろう」

「申し訳ありません」

 ヤギが床に転がっている本を取り上げ、オルニトに渡した。

「オルニト、ヤギが言っている話は本当なのか」

 答えを聞くまでもなかった。強張った表情が真実を物語っていた。

「私を恨むか?」

「なぜ?」

 イジュは首を傾げた。

「俺を助けてくれたのに……?」

「勝手に記憶を封じたんだ」

「最善を尽くしただけだろう。それに、今回は覚えているから、気に病むことは……」

「……大丈夫か?」

 手が震え続けているのを、オルニトは見逃さなかった。格好がつかない。言い訳を考えようとするが、取り繕うとすればするほど言葉が見当たらなかった。

 オルニトは頭を振った。

「……覚えていても良いことはないな」

「確かにこの人間は怖がりですが、単に打たれ弱いわけではありません。それはあなたがよく知っているはずです」

 ヤギの言葉にオルニトは目を丸くした。

「へえ、どうしたんだ? お前がそう言うなんて珍しい」

「あなたの本当の望みに耳を傾けてほしいだけですよ、オルニト。私の愛しい魂……」

 オルニトは俯いたまま呟いた。

「これが正しい方法なのか、私にもわからない。全て忘れ去ることが幸せなのか……。だが、少なくとも怪異に怯えることはなくなるだろう」

 オルニトから距離を取ろうとしたが、イジュは強い眠気のような感覚に抵抗できずに膝をついた。意識が朦朧とし始めて、何か言葉を絞り出そうとしても呻き声が出るだけだった。視界がぼやけて、じっとこちらを見下ろすオルニトの表情すら読み取るのが難しい。

 オルニトはイジュの額を手で覆った。

「今すぐに何もかも投げ出して、ゆっくり眠りたいと言っていたな」

「待て、オルニト、駄目だ……」

 腕を伸ばし、オルニトにしがみついた。彼女の肌がすぐそばにあるのに、ひどく遠くに感じる。離さないようにときつく抱きしめるが、ここがどこなのか、一体ここで何をしていたのか、なぜオルニトがいるのか、彼女のそばに立っている男が誰なのか、ほとんどわからなくなっていた。温かで柔らかな感触だけが腕の中にあった。

 何かに突き動かされるように、イジュは呟いていた。

「つ、ぎは絶対に……」

「次などあってたまるか」

 そう囁く声は震えていた。

 床に倒れ込み、眠りに飲まれ薄れゆく意識の中でオルニトの声を聞いた。

「ゆっくりお休み。良い夢を」

 

 怪異イベントが終わって外に出ると、地面に水溜りができていた。

 夏が過ぎ、朝晩は涼しく、日中も過ごしやすくなった秋頃に開催されるこのイベントは「物好きのサバト」でも毎回話題になり、参加を楽しみにする声がいくつも見受けられる。様々な怪異を取り扱う同人誌やグッズが会場内に並び、一方では妖怪やお化け、悪魔学などに関わる人々の講演もあり、全国各地の怪異好きが集まるお祭りのようなものとして位置付けられている。ぞろぞろと会場内を歩く参加者たちはまるで百鬼夜行そのものだ。

 オルニトとは昨年もこのイベントで会っている。約一年ぶりの再会だった。会場内ではそれぞれに行動し、イベント終了後に集まろうと事前に約束を取りつけていた。

 イジュはいつもより口数が少ない友人を怪訝に思いながら空を見上げた。

「朝は降っていなかったのに……」

「私も傘を忘れたよ」

「どこか店に入ろう。少し長い話になる……。あの向かいの店でいいかな」

 オルニトは静かに頷いて歩き出した。雨に濡れるのが嫌なのか、しかめ面をして黙り込んでいる。

 イジュは居ても立っても居られず、心に秘めていたことを雨の中で打ち明けた。

「実は、怪異関係のことで相談が……」

「映画の話じゃないのか……」

 あからさまに肩を落としたオルニトに、イジュはやや面食らった。

「その話もあるよ」と慌てて付け加えた。

「本題はそっちじゃないだろ」

「いや、まあ……。でも、君に相談するのが一番だと思ったんだ。オルニトといれば乗り越えられる気がするから……」

「まただ。手が震えている」

「また?」

「なんでもない」

 イジュは手首を掴み、震えを抑えようと深く息を吸った。湿った空気がじっとりと肺を満たしていく。

「これは、その、雨で冷えて寒いだけだよ」

「全く……」

 オルニトは急に立ち止まり、イジュをじっと見上げた。

「今度こそ、忘れたくても忘れられないくらい、恐ろしい目に遭うかもしれないぞ」

 鋭さのある強張った声は雨の中でもはっきりと届いた。

 濡れるのも厭わず答えを待ち続けているオルニトに、イジュは柔らかな笑みを浮かべた。

「たとえ怖くても、君と協力すれば、怪異に立ち向かえる気がするんだ。力を貸してくれないか?」

 ふとイジュは視線を感じて雨の中を探った。

 やや遠くに、傘も差さずにこちらをうかがっている男がいる。かすかに微笑みを浮かべ、眼差しには慈しみを宿らせている。

 男に見覚えはないが懐かしさを感じ、なぜ記憶をくすぐられるのかわからないまま、イジュはその場に立ち尽くした。

「どうした?」

「いや……」

 人の往来にまぎれてしまったのか、再び視線を戻すと、男の姿はすでになかった。