魂のありか

 自称悪魔研究家は牢屋で退屈していたが、檻の外にいる聖職者は怯えを目にたたえ、声を震わせていた。

「悪魔に取り憑かれた哀れな若者よ、もうじき悪魔払い師が到着する」

 聖職者は両手をしきりにこすり合わせ、落ち着かない様子だ。「神の御加護がありますように」と、これで何もかもが解決だと言い聞かせるように呟いた。

 悪魔を調べていただけでなぜ牢屋に入らなければならないのか、シキミには理解ができなかった。「悪魔なんていやしませんよ」と言っても、相手は聞く耳を持たない。すぐに「取り憑かれてなんかいない」と付け足すが、ぶるぶる震えながら耳を塞いで階段を上りどこかへ行ってしまった。「魂を食べるわけがないだろう!」と叫んでも返事はなかった。おそらく悪魔払い師の出迎えの準備でもするのだろう。一刻も早く疑いを晴らして、薄暗いこの地下室から太陽あふれる地上へと解放されたいものだ。シキミは大きなあくびをして、数時間前の集会のことを思った。

 全ての始まりは、私的悪魔研究集団「悪魔を知る会」に自警団が入り込み、楽しいおしゃべりを邪魔した挙句、逃げ遅れた集会参加者を教会に突き出したことだった。悪魔憑きめ! と彼らは言ったが、自称悪魔研究家のシキミでさえも、実際に悪魔にお目にかかったことはなかった。どこにも悪魔なんていないはずなのに隠れ家をめちゃくちゃにしやがって、と悪態をついた。

 シキミを含めて三人の集会参加者が教会に引き渡されたが、その晩、屋根裏部屋に閉じ込められた二人から魂が抜かれてしまっていた。現場を確認したのは聖職者と彼らを連行した自警団二名で、それからすぐに悪魔払い師を呼び寄せる運びとなった。

 悪魔はおとぎ話の存在ではなく、現代においても人に取り憑き悪さをし、人間を惑わすだけでは飽き足らず魂を食らってしまうのだという。人間の魂は一度食べたらやみつきになってしまうほどの味だと言われているが、そもそも悪魔には魂がなく、だからこそ人間のものをほしがるというのが悪魔研究家の一般的な解釈である。

 悪魔がどうして取り憑くのか未だ原因は判明していないが、悪魔払いははるか昔から需要があり、今でもお祓いを希望する者が後を絶たない。だが、悪魔に取り憑かれたと教会に駆け込んで来る者の中で、「本物」の悪魔が取り憑いているのは稀だそうだ。

 元々、悪魔研究は神への信仰をより強めるために聖職者によって始められたが、悪魔崇拝が数年前に流行り出してからというもの、民間人が悪魔について調べ、情報交換のために交流するのは堕落の道へと突っ走っていることに他ならないと目の敵にされていた。シキミは髪を短く切り、男性の格好をして変装しながら調査を続けていたが、ついに今回の事件で面が割れてしまった。加えて犯人扱いとは寝耳に水である。魂抜きの現場である屋根裏へは立ち入っていない。しかも、牢屋の中にいたのだから手を出せない。襲う理由もない。しかし、自警団らは言う。「この坊主は手遅れだ。この悪魔崇拝者は、自らの魂だけでなく、他人の魂をも捧げようとしているんだ! いや、こいつが悪魔そのものだ。魂を食らったに違いない!」

「私は悪魔崇拝者ではない、悪魔研究家だ!」

 返事はなかった。

 悪魔が存在しようがしまいがシキミにはどうでもよかった。「悪魔を知る会」がその話題で持ちきりであっても、彼女にとっての悪魔研究は自分の興味関心を満たすためであり、長年の行いから積み上げてきたものであった。

 悪魔に興味を持ったのは、幼少期に知り合った友人が「悪魔のことを考えると恐ろしくなって眠れない」と目を潤ませていたのがきっかけだった。正体がわかってしまえばなんらかの対策が可能だと考え自由研究を始めたが、幼き友が遠くへと引っ越してしまい、会話がほとんどなくなってからも研究は習慣となり、誰に頼まれなくとも本を読み、悪魔について語り合う集会に参加し、遠くに出かけて悪魔にまつわる遺物を見た。

 悪魔を知ることは人間を知ることと同義である。これはシキミの個人的な見解だ。悪魔は人間を堕落させるのがそれはそれはうまいらしい。人間の欲望や悩みを知り尽くしている生き物だ。彼らの行動を学べば人間への理解もより深まるのではないかと、悪魔と人間の関係性について考えを巡らすようになった。

 

 夜更けにやって来た悪魔払い師は、青みがかった灰色の目と髪を持つ男だった。ベテランを寄越すのかと思いきや、存外若い。若手は悪魔を怖がることが多く、祓う側は人材不足に頭を悩ませており、高齢化が問題となっていると聞いたことがあるが、彼は三十代くらいで、自分よりも少なくとも十ほど歳が上であろう。牢屋の様子を見にやって来た聖職者とは対照的に、落ち着き払った態度が印象的だった。柔らかな笑みを少しだけ浮かべて、うろたえるこの教会の指導者に落ち着きを与えようとしていたが、どことなく胡散臭い。一見、人当たりが良さそうな振る舞いをしているが、目は笑っておらず、鋭い視線を周囲へと投げかけている。悪魔を警戒しているのだろうか?

「こんな夜遅くに申し訳ありません……」と聖職者は疲弊しきった声で言った。

「お三方、少しお休みになってはどうでしょうか」と悪魔払い師は言い、そっと視線を階段へと向けた。三人はあからさまに困惑し、牢屋の中にいるシキミを見た。

「この方は悪魔憑きではありませんよ。不安であれば、私が監視いたします」

「いや、しかし、上の二人は魂が抜かれています」

「ええ、もちろん、現場を見ましたから、それは十分に理解しています」

「では、我々が監視いたしましょうか」と二人の自警団は提案したが、悪魔払い師は静かに首を左右に振った。

「悪魔はこの教会の中にまだいるかもしれない。夜明けがくるまで、誰も外に出てはなりません」

 三人の背中が完全に見えなくなってからしばらくして、悪魔払い師はやっと口火を切った。

「災難だったね」と言いながら、牢屋の鍵を開けた。彼は微笑みをかすかに浮かべていた。

「なぜ鍵を?」

「預かっているんだ」

「そうじゃない。逃すような真似をしていいのかと聞いているんだ」

「君は人間だ。悪魔憑きではない」

 そりゃそうだ、とシキミは心の中で呟き、腕のいい悪魔払い師が来てよかったと胸をなでおろした。

「まだ現場を見ていなかったよね。一緒に屋根裏部屋を見に行こうか」

「なんだって?」

「君は悪魔研究家なんだろう。魂が抜かれた人間を見られるなんて、そうあるものでもない」

 耳を疑ったが、悪魔払い師は発言通り屋根裏部屋へと案内してくれた。

 シキミは部屋をぐるりと見渡した。天井には蜘蛛の巣がかかっており、少し埃っぽく、隅の方には分厚い本が重ねてられて放置されている。地下室と同様、静寂がこの場を支配していた。冷たく、湿っぽい空気が漂っている。夜の静けさの中にあるが、魂を抜かれた者たちの呼吸はほとんど聞こえない。生者が物音を立てればすぐに悪魔に見つかってしまうのではないかと、シキミは嫌な想像をした。

 部屋には二人の男性が床に倒れている。同じ「悪魔を知る会」に所属していたといっても、特別親しいわけではなく、なんとなく顔を見たことがあるような気がする程度の思い出しか引き出せない。彼らの呼吸は弱々しい。青ざめた顔をしている。魂は抜かれても心臓は動いているようだったが、目を凝らして観察しなければまるで死人だ。

「彼らの魂はもう食べられてしまったのか?」

「いいや、抜き取られただけで、まだ持っているよ。戻してやれば元のようになる」

「まだ持っているって……」

「あの自警団が持っている。彼らは悪魔崇拝者だ。ここ数日のうちに魂を集めて悪魔を召喚しようとしている」

 彼の推理はこうだ。「悪魔を知る会」を襲った自警団は悪魔崇拝者の集まりで、恐るべき悪魔を呼び出そうとしている。召喚には人間の魂が必要であるが、そう大量に手に入れられるものでもない。そこで、ターゲットにされたのが「悪魔を知る会」だ。自警団は何名かに分かれて集会参加者を確保、教会へと連行する。教会に引き渡すと同時に魂を抜き取るが、一人だけ魂を残しておく。そいつに罪をかぶせる。悪魔憑きの仕業にし、教会の聖職者と悪魔払い師の注意を引く。そうして自分たちは魂を持ち帰り、召喚を成功させるつもりだ。

「今頃、各教会で魂抜きが行われているはずだ。だが、そう簡単に悪魔払い師を出し抜けやしない」

 シキミは声を小さくして尋ねた。

「どうして自警団がやったとわかるんだ?」

「悪魔召喚を試そうとしている崇拝者の情報はすでに掴んでいたんだよ。それに、彼らは魂を奪う呪いを知っている。その呪文を使った形跡が残っている」

「どこに?」

 悪魔払い師は倒れた男たちの服を剥いで、背中を見せた。そこには、黒々とした痣が広がっている。魔法陣と似た、円形の模様が背中いっぱいに浮き出ており、円の中には古い時代に使われた文字や記号が並べられている。シキミは文献でこの模様を見たことがあった。文献には、魂を抜かれた人間が患う病として紹介されていた。悪魔に取り憑かれた証拠であり、この痣に覆われた人間は自我をなくし衰弱していくと記されていた記憶がある。思わず悲鳴をあげそうになったが、目は逸らさなかった。

 この街に悪魔が? まさか、と鼻で笑い飛ばそうとするが、かじかんだ指先の冷たさに気づく。血の気が引いている。体の奥から震えている。この震えは寒さのせいだけではない。

 シキミは目をつむる。本当に悪魔が存在するならば、喜ぶべきではないのか? 興奮で体を震わせなければならないのではないか。この目で魂抜きの証拠を見たんだと報告すれば、「悪魔を知る会」での討論はさらに盛り上がるだろう。しかし、自分と同じように自警団に連れて行かれた参加者の大半は魂を失ってしまう。再び結集するのは夢のまた夢だ。きっと、召喚も時間の問題だ。

 悪魔に対抗する知識を持っていたとしても、いざというときに使いこなせないなら意味がないと、シキミは唇を噛んだ。

「大丈夫か?」

 問いかけにはたと目を開けて、シキミは悪魔払い師を見上げた。恐れを見透かすような瞳に身震いした。

「魂を奪って悪魔を召喚しようとしているなら、自警団を止めないと……」

「ああ、それなら任せてくれないか。君は地下室で夜明けを待っていてほしい」

「相手は二人だぞ」

 悪魔払い師は目を細め、飄々とした口調で言った。

「仕事を請け負ったからには、私がやらなければならない。……その代わり、この悪魔払いが終わったら、頼みがあるんだ」

「頼み?」

「礼はそれと引き換えということでどうだい? 力になってほしいんだ。悪い話じゃないだろ、悪魔研究家さん」

 

 シキミが牢屋で一晩を過ごし、夜が明けてから屋根裏部屋に向かうと、床に倒れていた「悪魔を知る会」はすっかり元気になっていた。腹が減った、朝食を食べたいなあ、とぼやいていたぐらいだった。自警団は縄でぐるぐる巻きにされて、恐怖で顔を歪めていた。何か恐ろしいものでも見たのか、召喚の失敗を恐れているのか、聞きそびれてしまったことがシキミにとって心残りだった。その後、悪魔払い師たちが協力して悪魔の召喚を阻止したと、あの灰色の男から報告を受けた。事件から一週間後のことだった。シキミは悪魔払い師が所属する組織を訪ね、頼みとやらを聞くことにした。

 灰色の悪魔払い師は真剣な顔をして言った。

「悪魔と人間が共存する時代が来る。悪魔を使う人間が出てくるはずだ。しかも、公的に認められる形で」

 悪魔払い師のくせにやけに悪魔に肩入れしているような気がして、シキミは訝しんだ。

「悪魔崇拝者が?」と聞き返すと、彼は否定した。

「いや、悪魔使いのことだ」

「悪魔使い?」

「悪魔と協力して困りごとを解決する世の中になる。これからは悪魔と組んで悪魔払いをすることになるだろう。現に、そのような計画が動き出している」

「じゃあ、どうしてこの前の魂抜きを止めたんだ?」

「あの自警団らは悪魔と協力したいなんて思っちゃいないからだ。悪魔もそうだ。魂で腹を満たして満足したいだけだろう」

「はあ……」

「悪魔と組むには悪魔をよく知る者が必要だ。君のような……」

 灰色がじっとこちらを見つめた。

「悪魔払い師にならないか」

 頼みは一度聞けば終わるものだと思っていた。

 シキミは言葉に詰まり、騙されたと腹を立てたものだったが、悪魔の研究をするには申し分ない環境が与えられるだけでなく、人間についても学べるだろうと考え直したこともあり、二人は友人となった。灰色の悪魔払い師は知識を与え、シキミは根気強く悪魔払いに取り組む日々を過ごすことになった。

 悪魔払いは忍耐と根気が必要で、噂通り、「本物」の悪魔が取り憑いた例はほとんどなかった。悪魔払いをやってほしいと何十年も通う住民もいるくらいで、この施しをして何になるのだろうと自問自答する日もあった。決して派手な仕事ではない。地味で、楽しくないと思うことの方が圧倒的に多い。シキミは悪魔研究という自分の行いを愛しているが、対人においては敬愛と誠実さと根気強さも必要であると悪魔払いから学んだ。

 あの事件から数年経っても、悪魔払い師はシキミの隣にいた。

 この日は朝早くから多くの依頼が舞い込み、深夜になってからようやく二人はベッドに沈んだ。

 灰色の悪魔払い師はずかずかとシキミの隣に潜り込んだが、シキミはそれを止めなかった。深い疲れが目の下にはあったが、彼は穏やかに微笑んでいた。

「どうして悪魔払い師になったんだ?」とシキミは灰色に尋ねた。

「私の使命だと思っている」

「神から与えられた使命ってこと?」

 悪魔払い師はくつくつと笑った。

「神様ね……」

 嘲りを含んだ声に、シキミは答えを間違ったと知った。

「初めて悪魔払いの儀式を見たときに、お祓いを通じて人間を知り、人間と関われると知ったんだよ。悪魔払いをしても効果がないときだってあるけど、しないよりかはマシだし、かといってお祓いばかりに集中しすぎるのも良くはない。皆悪魔を信じたがるけれど、回復のためには、信仰、祈り、清潔さ、睡眠、栄養のある食事、適度な運動などを取り戻して生活することが重要だったりするんだ。仕事をしていくうちに、全ての事柄が悪魔の仕業ではないと気づくようになってね、悪魔と人間が共存していく未来もあるんじゃないかと思ったんだ。神様にこんなことを言っては怒られるだろうけど、悪魔払い師として悪魔と人間の共存を目指し活動することが、私の使命だが……」

 途方に暮れたような声で、悪魔払い師は呟いた。

「ただ、ずっと、友達になりたかっただけなのかもしれない」

 悪魔払い師はしばらくなにか考え込んでいたようだったが、ふと体を起こし、シキミに覆いかぶさった。

「君の魂は美しいな」

 その言葉を聞くと、シキミはどうしていいのかわからなくなる。自分の魂も他人の魂も見たことがない。そもそも魂など存在するのかも怪しい。姿は見えないが、そこにあるものとして認識されている。だが、不思議なことに、その存在をはっきりと強く見出すことも稀にある。神と一緒だと思う。見えずとも、なぜか感じられるもの。だが、この悪魔払い師には魂がない。優しく、穏やかで、人助けに熱心で、冷静さを忘れず、情熱を持って仕事に取り組む姿をずっとそばで見ていても、魂に触れるどころか、その存在を全く感じ取ることができない。

 シキミは困惑したまま悪魔払い師を見つめた。

 彼の口からその言葉を聞いたのは今回が初めてではない。二人の間にだけ通用する合図だということも、嫌というほど知っている。

 悪魔払い師は目を細め、薄く微笑んでいる。灰色の瞳に暗い炎が宿っている。シキミの許しを促すように、男の唇が髪やこめかみに触れる。

 見られていると思うと、指が震え、シャツのボタンを外すのにもたついてしまう。彼は黙ったまま、大人しく待っている。

 胸元が少しはだけてしまった己を差し出して、シキミは小さな声で言った。

「やめなくていい……」

 首筋に大きく噛みついたかと思うと、甘噛みを繰り返し、傷跡を舌で丁寧に愛撫する。むき出しになった肩に唇を寄せ、味わうように歯を立てる。指や脚といった体のありとあらゆるところに延々と食いつかれる。

 これはまるで味見だ。

 だが、彼の熱い手も、鋭い歯も、魂に届くことはない。

 ぞっとするほどの熱が生まれたが、それは恐怖だけがもたらしたものではないと知っている。