背骨の再生

 あらかたの手当てを済ませてから、私は彼の服の裾から手を入れて背中を撫で上げた。

 野外調査になると注意を呼びかけても曖昧な返事をして駆け出していってしまうが、こうやって背に触れるといつもおとなしい。手のひら全体で背を撫でてやることもあれば、指先をかすかに触れさせてゆっくりと往復させることもある。特に、背骨にあたる盛り上がった肌を執拗に擦ると、彼の体は一層震える。私の背にしがみつく手がシャツをぐしゃぐしゃにする。声を抑えようと私の肩に顔を押しつけてやり過ごそうとするが、何度も優しく触れていると、その策も失敗に終わる。普段の明るい声も、このときばかりはくぐもった音になる。背に回された手はすがるようにもがき、溺れる瞬間を見ているようだった。

 野山で大半の時間を過ごす彼は、気づかぬうちに切り傷やあざを作ってくるが、当の本人は植物学者ならばよくあることだと言って構いやしない。しかし、それが心配の種となって実をつけた結果、私は彼の家族からの依頼で世話人のような立場を任されることになった。彼は若いがすでに成人し、植物学者としても着実に成長を重ねており、彼らの憂いは過剰に思えたが、何歳になろうが親しい人間からすれば危なっかしいのだろう。依頼人と私の知り合いが親しい間柄であったことが理由で話が舞い込んだが、当時、私は全てに嫌気が差し、すっかり引きこもっていた頃で、正直あまり乗り気ではなかった。だが、報酬が良く、何より青年の興味関心のほとんどが植物にあり、メディアに大々的に取り上げられていた私へ好奇の目を向けなかったことが決め手となった。(後で知ったことだが、どうやら単に情報に疎かっただけらしい)。

「君は幸運のひとだからぴったりだ。縁起が良いね」

 仕事を引き受ける際に依頼主から冗談めかして言われたが、私は何も言い返せなかった。

 彼はお目付け役としてやって来た私を無下には扱わなかったが、あまり目線を合わせようとはしなかった。眼差しが優しく性格も穏やかではあるが、人見知りはやや激しい。彼とシェアハウスをしていた友人が転勤で引っ越したばかりで、野外調査で家を長く留守にする際に誰が植物の面倒を見るのかと指摘されてからしぶしぶ私を受け入れた。彼の住まいには至るところに観葉植物や四季折々の花が置かれていて、なかなかの植物園っぷりに面食らったのを覚えている。

 彼は日中職場にいるか、休みは私的な調査に出かけることが多く、互いに干渉はしなかったが、調査中に転び傷だらけで帰宅した彼に手当てをしてから少しずつ信頼を得るようになった。蕾が花開くように、頑なな心が解けていくのを見るのは悪い気はしなかった。彼の眼差しに宿る小さな光をずっと眺めていたかった。

 確かに青年はよく怪我を作ってきたが、本人の不注意というより、そもそも傷つくことを気にも留めていないのだろう。視界に植物があれば飛んでいってしまう。草木によってはとげがついているものもあるが、臆することなく向かっていく。とはいえ、興味関心にばかり突き動かされているわけではなく、毒の有無を確認して注意を払っている様子も見受けられた。今のところ、入院を必要とする大怪我はしていない。怖いのは植物そのものよりも彼の行動だ。調査に同行した際、足場の悪い崖先に生える植物を採取しようとして体勢を崩したときにはさすがに肝が冷えた。

 青年は動物学者の友人と数ヶ月に及ぶ調査へ赴き、つい先日帰ってきたばかりだった。私はその間住まいを預かり、掃除や植物の世話をしながら帰りを待っていた。

 動物学者が引き連れていたチームには医療スタッフがいるためか、現地でできた傷には応急処置がなされていて、傷口はすでにふさがっていた。血が滲んだ絆創膏や包帯の姿が見えないのは、彼が取り払ってしまったためだろう。

 治りかけているのは百も承知で、私は傷跡を指摘する。彼の額や手に触れ、ほら、ここにもあるぞ、ああ、こっちにも……。そう訴えるように、傷をひとつひとつ眺めて彼に気づかせる。

 納得したように頷いて、「手当てをお願いしてもいいかな」と彼は言う。

 絆創膏やガーゼで傷を覆うだけの簡単な処置だ。慌てて応急箱を開けていた頃もあったが、今は慣れたものだ。何度も手当てを繰り返すうちに手際も良くなってしまった。

 彼の背を撫でるのは毎回手当てが終わった後だ。初めは、怪我がないか確かめようとしただけだった。それだけだったはずなのに、ほとんど無意識に彼の背に口づけて、ただただ泣き続けていた。

 背中に涙がこぼれ落ちたとき、彼は振り返って、私をそっと抱きしめた。

 彼にすがっていたのは私の方だった。その日からずっとこのような行為が続いている。

 彼の背骨を撫でながら、私の背骨はどこへ行ってしまったのだろうと考える。寄りかかられていると、自分が彼を支えてこの場に立っていると感じられるが、彼がそばにいなくとも、どこへでも一人で歩いていけるはずだった。

 なにが幸運のひとだ。私は極寒の地で偶然生き残っただけの冒険家に過ぎない。目的地までたどり着くもその帰りに遭難し、過酷な環境であっても耐えられたのは私自身の実力ではなく運だった。冒険家にとって、予期せぬ成功ほど怖いものはない。

 真の幸運の持ち主ならば、とっくに未知の世界に戻っているはずだ。語る言葉をほとんど失うこともなかっただろう。失意の中で国に戻ったが、奇跡の生還だとはやし立てられ、体験談を語ってほしいとマスコミが殺到した。

 どうして成功できたのでしょう? あなたは幸運のひとだ。一言お願いします……。

 成功だって? 冗談じゃない。私の旅は失敗だった。やめてくれ、放っておいて、近寄らないでくれ……。

 喉からは掠れたうめき声のようなものだけしか出てこなかった。今でも声を出すのは難しいが、青年の前では少しずつ言葉を交わせるようになった。幸運を与えているのは彼の方ではないか。

「君に聞いてほしい話がたくさんあるんだ」と青年は笑った。服は整えられ、先ほどまで私たちの間にあった身悶えの色はすっかりなくなっている。

「今回の調査も面白いことがいっぱいあったんだ。君の方はどうだった?」

 何も変わりはないと示すために、首を左右に振った。机の上にある植物管理日誌を顎で指すことも忘れない。留守の間、彼の植物の世話は私に一任されている。

「ああ、いつもありがとう。この手当も……。傷はふさがっているんだけど、君にしてほしかったから……」

 彼がこうして無事に帰り、密かに抱いていた願いを叶えてやることができたのは僥倖だった。

 そっと安堵のため息をつき、私は彼の名をたどたどしく呼んだ。

「……おかえり」

 私の声に、彼はぱっと顔を輝かせた。

「ただいま!」

 背骨は透明になっているだけで、案外まだ残っているのかもしれない。