白銀の牙

 白銀の髪は外の霧雨のせいで濡れて、肌には苦しみと格闘する中で生まれた汗が浮いていた。開けたシャツから覗いた胸元には、禍々しい違法魔術が居座っている。体の震えが止まらないのは、寒さのせいだけではないとヒグレは見当をつけた。

「大きく息を吸って」と医療用のベッドに横たわる男に声をかけた。

「そう、深く息を吸い込んで、吐き出して……。いいか、今から魔術を取り除く。対魔術用の炎を使うから、少し熱いかもしれない」

 男は恐る恐る目を開き、弱々しい視線をヒグレに投げかけた。意識は朦朧としているが、声は届いているようだった。

「なに、火傷はしないさ。すぐ終わる……」

 ヒグレの手の平が魔術に触れた瞬間、肌の上に炎が広がると男は大きく咳き込んだ。開かれた口の隙間から、鋭く尖った歯が見えた。

「君に取りついているのは、体だけでなく、精神をも蝕もうとする強い呪いだよ。誰かから恨みを買ったのか?」

 男は答えなかった。

「まあ、どうであれ、治療はするさ。魔術にはめっぽう強いんでね……」

 男の目蓋がゆっくりと閉じられていくのを一瞥し、燃えてチリになりつつある呪いの一部を摘んで試験管に保管する。男には必要なものとなるだろうとヒグレは確信していた。

 霧雨の中から現れた大男は、違法魔術が持つ嫌な魔力と民間企業の警備課の社員証を携えていた。探偵の真似をするつもりはなかったが、ヒグレは想像を巡らせた。彼は雇われた用心棒か何かであり、警護対象をかばって呪いを受けてしまったのではないだろうか。魔術に抵抗するための訓練は受けているはずだが、避けられなかったとなると、自分が受けることで警護対象者を一時的であっても危機から救おうとした。即死は免れると魔術の効力を見抜いたのだろう。しかし、その後はどうするつもりだったのだろう。魔術師や医師が見つからなければ、さらに危険な状態になっていただろうに。

 ヒグレはもう一度試験管を見つめた。違法魔術を扱える者は少なくはないが、証拠が残れば呪いの操り主の特定に貢献するはずだ。男の肌に張りついていた魔術が跡形もなく燃え尽きたのを確認し、こめかみに流れた汗を拭った。

 しばらくして、男は苦しげに起き上がると、ヒグレの腕を掴んだ。彼の指が白衣に隔てられた肌に食い込み、わずかに顔を歪めた。

「処置は終わったが、まだ休んで……」

 腕を引っ張られ、胸元へと体ごと引き寄せられる。気が緩んでいたために咄嗟に反応が取れず、驚きと悔しさが一気に吹き出した。努めて冷静を保とうとしたが、危うく試験管を落とすところだったと、ひどい焦りがわき上がった。

 湿った息が首筋にかかった。

 一体、何をするつもりなんだとヒグレは訝しんだ。文句の一つでも言ってやろうかと口を開きかけたときだった。

 深く突き立てられた甘い痛みに言葉を失った。

 男の鋭い歯は何度も柔らかな肌に沈んだ。かすかな呻き声が聞こえると、男は慈しむように噛み跡に舌を這わせた。

 

「街の中央にある大聖堂は、この街を作り上げたかつての市長がある医師のために建設した祈りの場とされています」

 ツアーガイドは大聖堂を見上げながら続けた。

「市長がこの街を築き上げるずっと前のことです。友の裏切りにあい、絶望の中、彼は荒野を彷徨っていました。水も食べ物も口にせず、体も心も大変弱っていました。あてもなく歩き続けていましたが、ついに限界がきてしまいます。道の途中で倒れてしまったのです。もう立ち上がることができないと、諦めようとしていたそのときでした。どこからか、ローブで全身を覆った、医者だと名乗る人物が現れたのです。医者は彼に食糧を与え、懸命に治療にあたりました。すると、彼はすっかり回復し、再び歩けるようになりました。医者のおかげだと感謝の気持ちでいっぱいになり、あなたは一体誰なのかと正体不明の医者に尋ねます。しかし、医者は名乗らず、お大事にと一言声をかけると、どこかへ消えてしまいました。彼は姿の見えなくなった医者の旅路に生涯祈りを捧げ続け、感謝の念を忘れなかったといいます。この物語は、街の始まりの昔話として語り継がれていて、この街に大きな医療大学や有名な医療機器メーカーが多いのは、そのような背景も……」

 ツアーガイドの話を熱心に聞いていた男は、青空を背景にそびえ立つ大聖堂をじっくりと眺めた後、瓶詰めされた魔法薬が大量に入った袋を抱え直し、ようやくヒグレのそばにやって来た。ヒグレは大聖堂前の広場で記念写真を撮る観光客や、土産選びに集中している人々、ストリートで音楽を奏でるアーティストたちに意識を向けていたために、彼の足音に気づくのがやや遅れた。

「宵闇は良い聞き手だな。何度も聞いた話なのに飽きないのか」

「私はこの街の生まれではないからな。何度聞いても面白い」

 宵闇と呼ばれた男は微笑んだ。

「それに、あの話を聞くと、あなたと出会った日のことを思い出す」

 首元が不思議とくすぐったくなり、ヒグレはその感覚を打ち消すように歩き出した。

 魔術を燃やした翌日に、答え合わせは行われた。彼が用心棒だという予想は当たったが、勤務時間外のため警備対象者はその場にいなかった。魔術師に襲われそうになっていた市民を偶然見かけ、助けたまでの話だと男は語った。

「診察券をくれないか」と男は言った。

 窓から朝日が差し込み、昨晩の霧雨はすっかり姿を消している。闇の中で見た彼の銀髪は月の光のようだったが、太陽に照らされていると、雨上がりのしずくの輝きを思い起こさせた。

「この場所を覚えておきたい。改めて礼を」

「十分だ」ヒグレは拒否した。

「それより、早くその試験管を持って警察にでも協力を仰ぐといい。あの魔術には少なからず使用者の念が練り込まれている。犯人が誰なのか、特定は容易いだろう」

「あなたは優秀だ」

「優秀な医者は他にもいる」

「専門は?」

「魔術医療」

 ヒグレは話を打ち切ろうと男に背を向けたが、それがいけなかった。

「……ドクター。その傷は、まさか」

「傷?」

「首の……」

 男の表情が険しくなったかと思えば、同時に青い顔つきにもなった。

「噛まれたんだ」

「私に?」

 ヒグレは答えなかったが、男は傷の事情を察したようだった。

「すまなかった。今も痛むか?」

「別になんともない。薬も必要ないだろうが、すでに手元にある」とヒグレは早口で伝え、首の後ろを手で覆った。首筋にかかった熱い息と、味わうように繰り返し立てられた歯の鋭さに溺れてしまいそうで怖かった。

「あなたに害をなすつもりはなかった。すまない。文化的な差異があるとはいえ……」

「もういい。体調が良くなったのならそれで結構」

「あなたの名は? 魔術医療を修めた者はそう数がいないと聞く。若手の魔術医師と話すのは初めてだ」

「そうか」

「あなたは一体誰なんだ?」

「……名乗るほどの者でもない。お大事に」

「消えないでくれ」

 懇願する男の声に、ヒグレは思わず振り返った。

「……なんだって?」

「消えないでくれ、と言った。私はこの街にもう一つ大聖堂を建てることになる」

 男は再び現れた。医者の名を知ると、何度も恩を返そうとした。あからさまに警戒していたヒグレも、長い時をかけて心を開いていった。首を噛む行為が宵闇の種族にとって愛情表現の一種だと知ったのは、互いを友人と認識するようになってからずっと後のことだった。

 

 ヒグレの根城に到着すると、宵闇は机の上に魔法薬の入った袋を置いた。室内は医療道具と魔術書で溢れかえっている。ヒグレは慣れた手つきで棚に魔法薬を並べていく。その間、彼の視線が首筋にまとわりついているのがわかった。

「宵闇」とヒグレは魔法薬から目を離さずに名を呼んだ。

「今回は購入する魔法薬の量が多くてね、何度も店に足を運ばないといけないと思っていたが、君のおかげで一度だけで済んでしまった。助かったよ、ありがとう」

 宵闇は目を細め、穏やかな表情を作った。

「……君はもう十分恩を返した」

 空になった手元を見つめながら、ヒグレは言った。

「恩を感じる必要はなかったんだ。あの日、霧雨の降る夜に傷ついた君が現れて、私が治療を施したのは私にとって当然のことだった」

「私は私の意志であなたの隣にいる」

「わかっている。宵闇、少し屈んでくれ」

「どうした?」

 背伸びをして彼の肩にしがみついた。肩にかかっている銀色の髪を払うと、彼の肌があらわになった。ヒグレは彼の首筋に恐る恐る歯を立てた。力などほとんどなく、ただ触れただけであったが、宵闇の体は小さく震え、喉からは乱れた短い呼吸が吐き出された。二度目は弱い力で彼の存在を確かめるように噛みついた。首筋が淡く色づいた。

「宵闇」

 ヒグレは彼の目を覗き込んだ。

「君は私に助けられたと言うが、私も君に数え切れないほど助けられた。どうやって恩を返せばいいのか、ずっと考えていた」

 驚きに溢れていた瞳が喜びに染まり、わずかに涙で濡れていた。宵闇はたまらず友人を抱きしめ、ヒグレも背を包み込むようにして腕を回した。

「もう一度だけ、あの日と同じことをしてほしい」

「何度もしてはいけないのか」

 宵闇はヒグレの首筋をゆっくりと撫でた。指先から伝わる熱にヒグレは身震いした。

 返事を促すように声を潜めて名を呼ばれる。彼の鋭い歯が近づく気配がする。

「構わないが、加減を忘れるなよ」

「ああ、そうだな……」

 だが、宵闇は時折力加減を間違えて、ヒグレに叱られる羽目になった。甘く、鋭い刺激のためにヒグレが床の上に座り込むとすぐに自身から離れていった肌を執拗に追いかけて、小さくうずくまる体に覆いかぶさっていた。警戒心の強い友人が自分の意思で肌の一部を晒している現実は、宵闇をひどく興奮させたのだ。

「宵闇……! 本当に私の話を聞いていたんだろうな……!」

「大丈夫だ。聞こえている」

「……君はどうしてこういうときに聞き分けが悪くなるんだ?」

 肌に残った歯形を労るように舐めていたかと思うと、再び歯が立てられ、ヒグレはこらえきれずに短く掠れた息を吐いた。小言を言っていたヒグレの口数は減り、喉の奥から悲鳴と喜びの混じった喘ぎを抑えきれずにいる。待ち望んでいた刺激を絶え間なく与えられ続け、ほとんど気が狂いそうだった。

 仰向けにされ、ヒグレは強く瞑っていた目を開いた。視界に彼の顔が写り、二人は互いを観察した。目の前にいるのはヒグレのよく知る宵闇であったが、物柔らかな人となりをし、常に冷静であろうと努めている友人が、唾液で湿った肌を見下ろし喜びに打ち震えている姿に驚かされた。

 かじりつくように抱きこまれ、ヒグレは喉元に触れた熱い息遣いと歯の感触にくぐもった声をあげた。

「首を噛む行為は我々の種族にとってどのような意味を持つのか、あなたは理解しているようだ」

「ああ」

「どこで知った?」

「君の故郷の近くで学会が開催されたんだ。そこで偶然知ったんだよ。開催地の関係なのか、参加者には君のような文化を持つ人々が多くてね」

「では、これは知っているか。何も首だけにするものではない。愛情を示すために全身に歯を立てることもある」

「勘弁してくれ……」

「私はあなたに友情を感じている」

「わかっているよ」

 宵闇は自らの額をヒグレの額に押しつけた。互いの前髪は汗に濡れていた。

「まだ足りない。これだけで伝わるとは思っていないが、それでも……」

「好きにすればいいが、少し休ませてくれ……」

 差し出された許しに、抑えがたい喜びが宵闇の瞳に溢れた。

「私のことを考えて、ああしてくれたんだろう」

「首を噛んだことか? あれで合っているのかわからなかったが……。不慣れで悪かったな」

「ヒグレ」

 宵闇の指先がヒグレの唇をなぞった。落ち着きのある低い声だったが、どこか思慮深さの欠けた、縋りつくような響きを持った彼の言葉が耳元に落ちてきた。

「もう一度」

 剥き出しになった感情が、ヒグレの許しを待ち望んでいた。ヒグレは疲れ果てていたが、できるだけ力を込めて彼の首筋に噛みついた。

「ヒグレ。もう一度、もう一度だけ……」

 行為は二度、三度続けられ、後は数えるのをやめた。

 ヒグレの白衣の下には、おびただしい数の宵闇からの贈り物が残った。