どこへでも行けますよとルドベキアは言った。
 この船は海の上だけでなく、陸だって、空だって走ります。あなたが望めば、あなたの行きたい場所へ。あなたの心に従ってこの船は動きます。
 操縦なんてやったことがないと言い訳をすると、資格はいらないと声が返ってくる。
 行き先がわからないと言うと、地図がなくたって進めますよと答えが届く。
 どこへでも行ける? できっこないよ、そんなこと。できないに決まっている。行きたいところなんてない。今すぐに歩くことをやめたいのだ。
 これ以上進めないよ。アキレアは視線だけで訴えたが、彼は何かを考えるように目を細めるだけだった。
 空は暗く重たげな雲で覆われていた。霧が濃く、見渡す限り乳白色の中にいる。船は地上を走っているのか海上を進んでいるのかわからない。揺れを感じないということは、そもそも動いていない可能性だってある。自分がどこにいるのか、さらには、時間帯すら見当がつかない。星や太陽があれば方角のヒントが得られそうなものだが、どこにも輝きは見当たらなかった。
 遠くで雷が鳴っていた。空気は冷たさを帯び、雨の湿ったような匂いが漂ってきた。数十分もすれば、青白い稲妻が空を切り裂くのだろう。
 嵐が待ち構えているかもしれない。これ以上、怖くて前に進めない。無理だよ。流れ出た涙は止まらず、絞り出した声は震えていた。
 できますよ、と彼は言う。確かに、嵐は来るかもしれない。目的地がどこなのかわからないかもしれませんが、出発することはできます。あなたにはその力がある。行き先は歩いているうちに決めても、決めなくてもいいです。どうされますか?
 ルドベキアは優しい声で続けた。
私はそばにいます。嵐が来ても、そばにいますよ。
 
 航海の夢を見るようになったのは、彼にもらった花を部屋に飾ってからだったように思う。
 別の日の夢では霧が晴れ、あの船がかなりの大型だということがわかった。甲板は広く、風を受け止める白い帆は美しく、天に伸びるマストは見上げていると首が痛くなるほどだった。
 毎晩夢にうなされるのだと相談すると、ルドベキアは花を抱えて家にやって来た。
「目覚めるときに花の香りがすれば、ここは自分の部屋だ、安全な場所だと認識することができるでしょう。しかも、魔除けの効果つきです」
 首を傾げていると、言い伝えのことだと彼は説明した。虫が嫌う匂いを発するため、守護の力あると昔から言われているらしかった。
 ルドベキアは種族保安部隊の隊員で、アキレアを事件現場の地下室から地上へと運び出した張本人だった。体内に毒を持つ患者が癒しの能力を奪おうと複数の祈りの者を地下室に閉じ込め、実験により不老不死を得ようとしたこの事件は、クリスマス前の街に衝撃を与えた。
 治癒能力保持者の中でも特に治療行為に従事する人々、通称、祈りの者は、手をかざして自らが持つ癒しの力を分け与えることで、相手の治癒力を活性化し回復を早める能力を持つ。アキレアもそのひとりであり、働き始めて日が浅かったが、懸命に患者と向かい合い、癒しを施す毎日を送っていた。
 犯人はアキレアの担当患者であった。体内の毒に自らの命が侵されていることに気づき、その侵食をできるだけ遅らせるために治療を受けていた。医療機関によっては、その患者の持つ毒の能力を取り除くことも可能だったが、犯人はそういった治療を拒否し、祈りの者を頼った。病院を転々とし、より良い治療のため、相性の良い祈り手を探しているのだと言っていたが、それは表向きの理由だった。犯人は種族能力売買組織の一員で、不老不死実現のための実験用サンプルを必要としていた。祈りの者が持つ治癒力はどれほどのものなのか、実際に能力を使わせることで治療のスピードや力の限界を調べ、驚異的な回復能力の実用化に向けて人体実験による研究を進めていた。
 地下室で目覚めたとき、アキレアは頭を強く殴られたような混乱の中にいた。暗く、殺風景な部屋の中には、何人もの女性が体を丸くしてぐったりと横たわっている。体には黒い痣が浮かんでおり、皆死んだかのように身動きひとつしなかった。自分の肌にも同じような痣があり、気絶している間に毒を入れられてしまったことにすぐに気がついた。
 実験に協力しなければ毒の量を増やす。体は麻痺し、交互に襲いくる熱と冷えに苦しみながら意識を失うことになるのだと犯人は脅した。
 治療行為を通して築かれた信頼関係が一気に崩れ去り、心を踏みにじられる衝撃など、決して味わうことがないと思っていた。会話を交わした際に見せたあの患者の笑顔が、こんなにも恐ろしく、憎らしいと思うことがあっただろうか。心は嫌悪で埋め尽くされたが、なすすべもなく、癒しを与え続けるしかなかった。疲労がたまり、時折気絶したように眠ることもあった。三日が過ぎても毒は取り除かれることはなく、治癒力は失われる一方だった。
 しかし、不老不死の夢など実現するはずもなく、種族能力の悪用を取り締まる種族保安部隊が犯人を拘束し、祈りの者を保護するに至った。
 彼らが地下室になだれ込んで来たとき、アキレアは床に倒れていた。犯人は刃物を振り回し、一人の青年の腕に傷をつけた。彼は一瞬ひるんだが、素早く犯人の体を蹴り飛ばした。他の隊員たちがすぐに銃を構え、床に転がった犯人めがけて弾丸を打ち込む。体が大きく二度痙攣し、それからぴくりとも動かなくなった。
「相手は毒の使い手だ。麻痺はそう長く持たないぞ」
 隊長らしき人物が銃を持った隊員に犯人を取り押さえるよう指示を出している。他の隊員は毒に侵された祈りの者を確認し、救助と解毒剤を要請している。
 アキレアは強張った体をやっとのことで起こした。全身は冷え切っており、指先すら動かすことが困難に感じられた。隊員のひとりが彼女のそばに屈み込み、声をかけた。しかし、アキレアは黙ったままだった。彼の腕に残されたナイフの傷に目を奪われていた。流れ出た血は衣服を汚し、染みは広がり続けている。
 アキレアは腕を伸ばしていた。疲れ果てているのにもかかわらず、当然のように、手はゆっくりと持ち上がった。少しでも苦しみを取り除こうと、軋む体を動かし、安らぎが訪れるようにと願いを込めて手をかざす。だが、血は大きな染みを作るばかりだった。その後の記憶は残っていない。次に目覚めたときは病院のベッドの上だった。

 アキレアの日常は突如としてひっくり返った。癒しを施す者ではなくなり、びっくりするほど弱り切った人間となった。
 瞼の裏側からぬっと現れる悪夢に怯えながら眠りにつかなければならず、目覚めを迎えたとしても、絶望ばかりが心に残り、自分の価値が跡形もなく消え去ったように感じる毎日を過ごさなければならなかった。人混みを恐ろしく思うようになり、誰かに傷つけられるのではないか、突然どこかに連れ込まれでもしたらどうしようかと、びくびくしながら街を歩くようになった。
 他人に与えられる治癒はなく、患者に祈りを捧げようとすると手が震えだした。治療に従事することができず、ほとんどの時間を事務作業に費やすことになったが、それも長くは続かなかった。フラッシュバックとの戦いに負けないように気を張っていなければならず、倒れそうになると人気のない職場の物置や会議室に駆け込んでよく祈っていた。しゃがみこんで、恐怖が過ぎるのをじっと待つ。アキレアは自分が何に対して祈っているのかよくわからなかった。神様なんていないことはわかっていたのに。
 事件から一ヶ月が過ぎても、治癒力が以前のように回復することはなかった。体調は悪化の一途を辿り、ついに職場で倒れ、再び病院に戻ることになった。

 船は波を蹴って進んでいる。
 どこへ向かっているのかはわからないが、とにかく進まなければいけないことはわかっている。心身ともにぼろぼろで、立っているのがやっとの状態であったが、無限に広がる青い静かな海を見ると気が紛れた。甲板に立ってぼんやりと景色を見る時間は、現実を少しだけ忘れさせてくれる。
 船旅に出る前は暗い地下室の夢ばかり見た。黒い痣が全身に現れ、毒に飲み込まれていく夢。事件は終わったはずなのに、いまだに囚われたままだった。暗闇を恐ろしく思うようになり、夜中でも部屋の明かりはつけっぱなしにして眠っている。
 事件後、肌に残った黒い痣はほとんどが焼けただれたようになってしまった。顔の一部に残ってしまった毒も大きな火傷跡に変化してしまい、隠すために絆創膏を頬と鼻に貼りつけるようにした。体内の毒を抜くための解毒剤と、枯渇した治癒を取り戻すための体力回復薬をしばらく服用する必要があると医者から説明を受けたが、自分の身に起こったことが受け入れられず、他人事のような心地で聞いていた。
 祈りの者としても、ひとりの人間としても、もう生きていけないかもしれない。そう思うと、じわりと瞳が潤み、わなわなと口元が震え始めた。声を押し殺すように唇を噛み締め、悲しみが通り過ぎるまでじっと耐えなければならなかった。
 祈りの者になることは、子供の頃からの夢だった。幼少時代、転んだ友人の手当てをしようと擦り傷に手を近づけたところ、みるみるうちに傷が塞がった不思議な現象を目の当たりにした日から、自分の力を他人のために使うことを決意した。だからこそ、手放したくなかった。力に溢れ、元気だった頃の自分を。使い物にならず、任された仕事も満足に行えなくなったこの現状から早く抜け出そうと努めてきたつもりだった。自分でも限界を感じていたが、がむしゃらに毎日を駆け抜けて、もう大丈夫だといつも言い聞かせていた。事件は終わったのだ。なんてことはない。きっとすぐに元通りだ。しかし、結局のところ、全てがうまくいかなかった。努力は水の泡だ。
 目にこみ上げた涙を拭っていると、ゆっくりとした足音が近づいてくるのに気がついた。顔を上げると、黒いコートを着込んだルドベキアがこちらを見下ろしていた。
 調子はいかがですか。
 目元にひどいくまを抱えていたが、声は不調を感じさせず、穏やかなものだった。
 傷の治りはどうですか。痛みはありますか?
 痛みはありません。薬を飲んでいるから、少しずつは治っていると思うのですが、あまり実感がなくて……。
 彼の目がじっと絆創膏に向けられる。注がれた視線は日々の嬉しい変化を探しているようだった。
  
 ルドベキアから治癒の供給の申し出があったのは、ちょうど休職を願い出てすぐのことだった。病室にやって来た上司から提出書類や休職期間の説明を受けた日の午後、これからどうすればいいのだろうと途方に暮れていると、ひとりの青年が病室を訪ねてきた。体調について尋ねた後、お礼が言いたかったのだと彼は言った。言葉を発する度に、鋭い牙が時折顔を覗かせた。
 アキレアは眉をひそめ、まじまじと目の前の青年を見つめた。
 大柄で体つきがたくましい彼はさながら熊のようであったが、強い眼差しと灰色の髪からは狼の印象を受けた。暗い色をした目はどこまでも穏やかだった。自分よりも五、六歳ほど年が上かと思われたが、落ち着いた口調や態度からしてこちらが思うよりもいくつか年を重ねているかもしれない。
 知り合いだろうかとアキレアは首をひねった。お礼を言われるようなことをした記憶がない。しばらく言葉を失っていたが、彼が立ちっぱなしであることに気づき、慌てて椅子を勧めた。
 彼はアキレアの訝しげな視線を気にすることなく、淡々と言葉を紡いだ。
「私はルドベキアと申します。種族保安部隊員です。先月のあの事件の際に、あなたは怪我をした私を助けようとしてくれました。治癒力がほとんどない状態で、しかもあの極限の状況の中で」
 青年はアキレアを助け出したとき、彼女の治癒能力が枯渇しかけていることにすぐ気づいたのだという。犯人を拘束する際に負った傷を一生懸命治そうとしていたのにもかかわらず、腕にできた傷口は一向に塞がらず、血がじわりと盛り上がり、肌の上に這い出したのだと説明した。
「定期検診で病院に来ていたら、偶然あなたを見かけたので……。どうしてもお礼が言いたかったのです。驚かせるようなことをして申し訳ありません。あのときはありがとうございました。もっと早くに伝えることができればよかったのですが」
「お礼なんて……。体が勝手に動いていただけです」
 傷は治らなかったのだから、祈りの者としての役目は果たせなかったことになる。感謝の言葉を聞いても、妙に居心地が悪かった。
 それとも、彼は治癒能力の枯渇を自分のせいだと勘違いしているのだろうか。ただでさえ力を使い果たしているところに、傷を治そうとしてとった行動がさらなる能力の悪化を招き、自分の油断が保護対象者の身に良くないことを引き起こしたのだと、ずっと気に病んでいたのだろうか。
「腕の傷は大丈夫なんですか……?」
「はい、平気です。私は頑丈ですので」
 彼はコートを脱いでシャツをまくり、右腕をさらした。ナイフで切りつけられたはずの傷は見当たらなかった。
「あの、もう少しよく見てもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
 断りを入れてからじっくりと観察する。流血の程度からして、あの傷は浅くはなかったはずだ。祈りの者のような治癒能力保持者であれば話は別だが、病院で治療を受けていたとしても、もう数ヶ月は傷跡が残るものだと思っていた。怪我の治りが異常に早いことを考えると、おそらく、彼も元々高い治癒力を備えている種族なのだろう。だから、自分のことを頑丈だと言ったのかもしれない。
「あなたのおかげで、私は再び立ち上がることができました」
 彼がしきりに礼を言う理由を察することができず、悲しみと苛立ちがふつふつと湧き上がった。アキレアは膝の上でぐっと手を握りしめた。
「私は何の役にも立っていません。その怪我だって、すぐに治ったのはあなたが特別な治癒力を持っていたからでしょう。違いますか?」
 やや語気を荒げても、彼は眉ひとつ動かさなかった。今はもう傷のない右腕をさすっている。
「確かに、私の治癒能力は他の方と比べて優れていると言えるでしょう。吸血鬼は不死の怪物と噂されただけあって、墓に入っても蘇る話がいくつもありますから……」
「吸血鬼……?」
「私は吸血鬼の末裔です」
 アキレアは彼の牙から目が離せなくなった。
「私はあなたの力になりたい。助けてもらったお礼がしたいのです」
 穏やかな笑みを見せながら言う。その声は懇願に近い響きを持っている。
「つらく、恐ろしい環境にあっても自らを見失わなかった。私はあなたを尊敬しています。もし困っているなら、力になりますよ。治癒を分け与えることだって可能です」
 一瞬、自分の耳を疑った。ぽかんと口を開けたまま、目の前の灰色を見つめ続けた。
「分け与えるって……?」
「治癒の供給のことです」
 祈りの者が非常に珍しい存在だった時代、長時間労働にさらされることが少なくなかった彼らのために、高い治癒能力を持つ種族が供給役となって癒しを分け与えていた歴史がある。体液による供給が一般的で、輸血や性行為など、様々な方法で治癒が提供された記録が残っているが、実際に行われていたのは数百年前の話で、現在ではこの治療方法は廃れている。
 とはいえ、今でもこっそり行われているという噂を聞いたことがあるが、身体の接触があるだけでなく、相手の体液を取り込まなければいけないため、自分には縁のない話だろうと思っていた。
「もしあなたが望むなら、ぜひ協力させてください」

 血を奪ってばかりの人生から共存を選んだ新たな世代は、分け与えることを善としたのです、とルドベキアは言った。
「吸血鬼はその昔、人間の生き血を吸う不死の怪物だと言われました。確かに、長生きはするけれども、今の末裔たちのほとんどは寿命を持っています。勝手に血を吸ったりしないし、今は吸血鬼専用の血液バンクがある。そもそも、血を吸う必要のある末裔の方が少数派です。吸血鬼とは恐ろしい怪物だと長年忌み嫌われていましたが、現在では他の種族とも手を取り合えるようになりました。吸血鬼が主人公の漫画も子供達に人気だと聞いています。種族保安部隊は種族能力の悪用を取り締まるだけでなく、偏見をなくし、人々がより良い生活ができるよう働きかける事業も行っています。彼らのおかげで、今の自分が平和に暮らすことができているのです。自分は他人よりも頑丈でしたし、何より恩返しができるのではないかと、種族保安部隊員として働き始めました。普段は広報の部署にいて、主に隊員の募集に関する業務やイベントなどの広報活動、事件が発生した際のマスコミへの報道対応を行っています。私は、自分が持っている知や力を分け与えることで、ひとの役に立つことを、ずっと願っていました」
 供給を怖がるアキレアのために、ルドベキアは昔話を語るような調子で静かに話し始めた。
 少しでも回復が早まるならとアキレアは治癒の供給を望んだが、元々他人との身体的な接触が苦手で、心身ともに弱っているせいもあり、怖がって泣き出してしまったのだ。
 人助けのためにわざわざ家まで来てくれているというのに、拒絶してしまうなんて、もう手を差し伸べてくれることはないかもしれない。怯えを見せてしまったことへの謝罪の言葉を紡ぐと、穏やかな眼差しを向けられる。取り乱してしまったことが恥ずかしく、申し訳なく思われたが、ルドベキアはたいして気にしていなかった。
「あんなことがあった後ですから、混乱するのは当たり前です。いくら治療とはいえ、慣れないことをするのだから不安でしょう。すぐに気づくことができなくてすみませんでした。ずっと怖かったでしょうね。まずは私のことを少し話そうかと思ったのですが……。あなたのことも教えてくれませんか?」
 アキレアは俯いて、静かに頷いた。
 沈黙の時間も少なくはなかったが、彼は静寂を無理やり埋めようとはしなかった。アキレアは少しずつ話し出した。
「祈りの者は昔、奇跡を起こす人々と呼ばれていました。文献に彼らの名前が最初に出てくるのは何百年も前のことで、盲目の老婆が体に触れるだけでその人の病気や不調を言い当てるという伝説にその名を見出すことができます。治癒の方法としては直接肌に触れる、手をかざして祈りを捧げるという二つのパターンがあります。王が病に悩む民に触れ病気を治す逸話や、聖職者が回復の祈りを捧げると荒廃した大地に緑が広がったという伝説も残っています。こういった奇跡を行う際には皆祈りを捧げていたために、奇跡を起こす人々はのちに祈りの者と呼ばれるようになりました。祈りの者は自らが持っている癒しの力を分け与えることができますが、治癒は有限で、使用すればするだけ減少します。骨折を一日で治したり、死んだひとを生き返らせたりすることはできません。力は相手の持っている治癒能力を高めることに使われるのですが、大昔の伝説から、現代の祈りの者たちも奇跡を起こせるはずだと勘違いする人々もいます」
 ルドベキアは週に一度部屋にやって来たが、仕事の関係で訪問が二週間空くこともあれば、週に二回顔を合わせることもあった。たいていは仕事帰りに足を運ぶため、ドアを開けると外はいつも真っ暗だった。冬の夜には冷え冷えとした空気が家々や街に染み渡っていたが、春になると寒さも和らいだ。
 治癒の供給が怖いのであれば、まずは慣れるために少しずつお互いに触れようと提案したのはルドベキアだった。彼は決して急かしたりはしない。無理強いもしない。ここは安全だと何度も言い聞かせるように、誠実さを含ませた手つきで肌に触れる。一方、アキレアはおろおろとするばかりで、自分から手を伸ばすことができず、自身の首飾りを心細げに触ったり、シャツの裾をぎゅっと掴んだりしていたが、彼に対して嫌悪を抱いているわけではなかった。
 肌は所々焼けただれ、髪には潤いがなく、体はかなり痩せて肋骨がやや浮き出ている。そんな相手に触れたいと思うのだろうかとアキレアは疑いの眼差しを向けたが、ルドベキアは回復の願いを込めて淡々と温もりを与え続けた。
 触れてもいいかと許しを求めた彼の指先からは、穏やかな炎の匂いがする。アキレアは伸ばされた手を受け入れながら、ぬるい体温を味わった。

 眼下には草原が広がっている。
 この間は海にいたというのに、眠りについてみれば今晩は緑色の地を進んでいる。夢見る本人の心情を反映しているのか、ただの記憶の気まぐれなのかはわからないが、船はずっと同じ場所を走っているわけではなかった。もしかしたら、迷子になってしまったのかもしれない。しかしそれでも歩みは止めることはない。
 雲ひとつない空は青く澄み切っている。時折穏やかな風が吹く中、ルドベキアは慣れた手つきで紅茶を注いだ。茶葉にはくすんだ赤や白、薄紅色の花が混じっている。缶の中を覗き込みながら、色とりどりの花々をアキレアは興味深げに眺めていた。
 子供の頃、天気の良い日はちょっとしたピクニックを楽しんだと思い出話をすると、じゃあ、やりましょうかと提案があったのだ。急遽甲板でお茶会を開くことになり、ルドベキアはどこからか持ち出してきたレジャーシートや紅茶缶やポット、ちょっとした菓子や紙袋などを両腕に抱えて嬉しそうにしていた。
 私たちにとって、お茶を飲むことは大切な生活習慣のひとつです。休憩をとるだけでなく、仲間や家族との会話を楽しむ時間でもあります。
 吸血鬼は寿命が長いと言われていた分、のんびり屋さんなのかもしれませんねと笑いながら、ルドベキアは紙袋から小箱を取り出した。
 お茶のお供には花が欠かせません。これはバラの砂糖漬けです。どうぞ食べてみてください。吸血鬼には花を好んで食べる習慣があるのです。
 食用なので安心してください、と小さな赤い花びらを摘んで口に入れた。
 彼が赤いものを口に含んでいると、まるで血を味わっているかのように見える。アキレアは不躾にじろじろ見てしまった自分を恥じた。
 お菓子もありますよ、とチョコレートや飴を大量に手渡される。ルドベキアは与えるのが好きだ。定期的に花を届けてくれるおかげで、部屋には甘い香りが常に漂うようになった。彼の贈り物のおかげで、地下室の夢はもう見ない。魔除けが効いているのだろうか。本当にそんなことが?
 紅茶を飲み干したルドベキアに、アキレアはずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
 どうして私を助けようとしてくれるんですか? 事件現場で祈りを捧げても、傷は治せなかった。治癒力がなくなってしまって、癒しを与えられたわけではないのに。
 確かに、傷口は塞がりませんでしたが、あまたが持つものは治癒能力だけではありません。暗闇の中で、あなたは私に光を与えてくれました。
 光?
 はい、ひとによっては思い出の場合もあれば、灯火や音であったり、オーロラの光であったり、それぞれ形が違います。普段は気づかないかもしれませんが、そばにあるものです。
 記憶を手繰り寄せるような目つきをして、じっと手に持っていたティーカップを見つめた。
 子供の頃、祈りの者に助けられたことがあります。
 彼とは支援施設で出会いました。そこは子供の心のケアを行うところで、私は長期休みの間だけ通っていました。彼は施設の職員ではなく、ボランティアとして来ていたそうです。子供との交流が中心で、治療行為をしていたわけではありませんでした。施設に通う子を集めて読み聞かせをしたり、ちょっとしたお芝居を披露したりしていた姿が印象に残っています。当時彼は作家を目指していたようで、私は彼が作った話をよく聞かせてもらいました。私も彼の話を聞くのは好きでした。「今日はここまで」という言葉を聞くと、話の最中に感じた胸の高鳴りがずっと続いているのに、どうしていいところで終わってしまうんだろうと楽しみを隠されてしまったような、悔しい気持ちになりました。続きはまだかとメモ用紙に書いて何度渡したことか……。
 ふと、彼の口元に微笑が宿った。
 彼は私と同じく吸血鬼の血を引いていたので、幼かった私は特別親近感を覚えたのでしょう。彼はもう祈りの者として活動していませんが、現在はコミックライターになって子供たちに物語を届けています。
 だから同業者である私を助けたいと思ったんですか?
 理由のひとつではありますが、それだけではありません。
 ルドベキアは深く息を吸った。
 以前お話したように、吸血鬼は長い間他の種族から忌み嫌われていました。およそ百五十年前に、差別撤廃に関する国際的な条例や宣言が採択されたこともあり、今では大幅な待遇改善がなされていますが、共存をしていく中での衝突は度々起こります。子供の頃の私も例外ではなく、クラスメイトから誤解をされたりしたものです。教室で物がなくなったりすると、お前が隠したんだろうと疑いの目で見られたり、他にも何か問題が起こったりすると犯人扱いされたり、血を取られないように気をつけないといけないなと、陰で言われたこともありました。要するに、私は奪う者、かつて血をすすっていた恐ろしい怪物の生き残りだと思われていたのでしょう。
 ある日、私はクラスメイトと喧嘩をしました。些細な言い合いから始まりましたが、最終的には取っ組み合いにまで発展してしまいました。私はクラスの中では背が高く、吸血鬼としての力もありましたので、相手を投げ飛ばしたり押さえ込んだりすることは容易にできてしまいます。力の差は歴然でした。お互い、怪我はなかったのですが、クラスメイトの目には恐怖が張りついていました。喧嘩を眺めていた他の生徒も、恐ろしい怪物でも見たかのような目つきになっていたんです。そのとき、自分の持つ力の使い方を誤ってしまったと、私ははっきりと認識しました。その日から、私が何かしようとすると皆びくびくと怯えるようになりました。口を開けば牙を怖がり、言葉を聞いてもらえない。近づいてほしくないのか、無視されるようになりました。こちらから話しかけようとしても逃げ出してしまって……。そんな日が何日も続き、私は自分という存在に自信が持てなくなりました。祝福されることがなく、奪う者としてこれからも生きていかねばならないのかと絶望してしまったのです。声が出なくなったのもちょうどその頃でした。クラスの皆を怖がらせないようにと、できるだけ口を閉じて牙を見せないようにしていましたが、いつの間にか声を失っていたのです。そういった理由で、施設に通い始めました。
 声はすぐに治りましたが、私はずっと怖いのです。また力の使い方を誤って、奪う側の存在になってしまうのではないかと。あなたを地下室で見つけ、犯人と対峙したとき、もしかしたら自分はあっち側にいたのではないかと恐ろしくなります。職業上、犯罪者の対応をしなければならないときはままあります。ですが、私はいつだって怯えている。あのときの事件でもそうです。隙を見せてしまい、結果的に、怪我を負ってしまいましたし、あなたや他の祈りの者たちも危険にさらしてしまいました。仲間の協力ですぐに犯人を拘束できたとはいえ、申し訳なく思います。
 そのときに、あなたが、私を助けてくれた。苦しみに晒されていたにもかかわらず、あなたがすべきだと思ったことを行動に移した、その心の強さに衝撃を受けました。あなたのその姿勢を見て、強い憧れを覚えました。恐怖に囚われていたとしても、自分のすべきことをして、自らの持っている力を他人のために役立てる、あなたのようになれたらと思います。あなたのことを思い出すと、自分の心に光が宿って、恐怖に打ち勝てる。だから、私はあなたの力になりたいと思っています。
 ルドベキアはじっとアキレアを見つめた。
 私にとってあなたは灯台の光です。船が転覆し海の中に沈んで、私が水面から顔を上げるとき、闇夜の中で輝く灯台の光を見る。その光は海に浮かぶ私を直接引き上げることはできませんが、その光を見て、岸までたどり着こうと、私は勇気をもらうのです。
 
 足音が聞こえてすぐにアキレアは玄関へと向かった。しっかりとしたノックの音が部屋に響くと、期待と困惑が胸を押し潰し、心臓の鼓動が早くなった。
 ドアを開けたとき、ルドベキアは少しだけ息を切らしていた。呼吸を整えながら、雨が降る前に着けてよかったと笑顔を見せ、いつものように調子について尋ねようとしたが、アキレアがしがみついたことで、言葉は遮られた。
 ややあって、背中に腕が回された。
「どうしました?」
「供給をしてほしいんです」
 体を離し、二人はただじっと見つめあった。
 目の前の青年はあまりにも静かで穏やかだ。言葉を選んでいるときのちょっとした沈黙や遠くを見つめるような目つき、紡がれた言葉や丁寧さを忘れない立ち振る舞いからは、安らぎと勇気を与える炎の匂いを感じ取ることができる。心細さを払拭してくれる、アキレアにとっての導きの光だった。
「あと、ずっと見守ってくれたお礼が言いたくて……。今まで手を伸ばせなくてごめんなさい。怖がってばかりだったけど、あなたが嫌いなわけではないんです」
「ええ、わかっています」
「あなたからいろんなものをもらいました。優しさや根気強さを私のために使ってくれてありがとうございます」
 思いやりのあるまっすぐな眼差しを向けられると、彼に切実に求められているように感じてしまう。心臓をぎゅうぎゅうと握られている気分になり、胸は苦しくなるばかりだが、その息苦しさの中で、ぞっとするほどの慈しみを持って心を撫でられる。
「今は手をかざすだけでも震えが止まらなくて、祈りの者として復帰できるかどうかもわからないけど、私がまた立ち上がって旅を続けることで、被害にあった祈りの者たちや、同じような目にあって苦しんでいるひとたちに勇気を与えることができたらと思います。お願いです、力を貸してくれませんか」
 傷つけられた自分は誰の役にも立てない、弱々しい、情けない人間だと思っていた。全ての力を奪い去られたと絶望していた。しかし、違ったのだ。彼が気づかせてくれた。苦しみながらも再び歩み出すことを。暗闇の中にいても、明かりはすぐそばにあることを。尊厳を持ち、けなされる権利などないということを。思い出した。失われてなどいなかった。
 ルドベキアがゆっくりと頬に触れる。燃えるように熱い手だ。
「あなたは私の憧れです。追い詰められた状況にあっても、手をかざして、私の怪我を治すために癒しを与えようとした、あなたの献身がずっと心に刻み込まれています。あの日からずっと、ずっと……」
 炎の匂いが徐々に近くなる。喉が渇く。心の奥深くまで彼が入り込んだら、自分はどうなってしまうのだろう。口を閉ざしたまま、心に湧き上がった願いに胸を焦がす。教えてほしい。触って確かめてみたい。
 それらを汲み取ったかのように、ルドベキアはアキレアの唇に噛みついた。

 彼の舌が口内に割って入り、甘ったるい蜂蜜のような唾液が流れ込んでいく。体の内側がじわじわと熱くなる感覚を覚え、アキレアは思わず息をこぼした。包み込むように背中に回された彼の腕に力がこもる。掻きむしりたくなるような疼きが全身に広がる。ルドベキアは彼女をじっと見下ろした。目つきは鋭いが、誠実さをいつも覗かせている。ただの治療行為であるのに、なぜ自分が塗り替えられていくような恍惚と戦慄を抱いてしまうのだろう。息が上がり、呼吸を整えようとするも、その吐息さえ捕まえて唇を塞ぐ彼の行動に、ただただ翻弄される。
 首筋に顔を寄せ、彼は低く声を漏らす。首飾りを指先でいじっている。
「ま、待って……! 今外しますから……」
 震える指をなんとか動かして首元を晒し、慌てて首飾りをベッドのそばにあるテーブルに置いた。
 喉に舌が這う。ぎゅうと目を閉じる。恐ろしいはずなのに、触れられている部分が切なく疼く。
 ルドベキアは何度も首元を甘噛みする。食い破ろうとはしないが、形を確かめるように歯を立てる。それから労わるように舌を這わせ始めた。くすぐったい感覚が広がり、思わず身動いでしまう。傷跡から、じくじくとした熱が染み渡る。荒くなりつつある呼吸を整えるためにアキレアは冷静を保とうとするが、快楽は膨らむばかりで、それを止めるすべを知らない。小さな、甘ったるい声が出てしまい、恍惚に身を任せるしかなかった。
 アキレアは灰色にぐったりと寄りかかった。彼の手が優しく背中を撫でる。目を閉じ、呼吸を整える。彼に触れられると何も考えられなくなる。噛みつかれたときに感じた熱がいまだに体内で暴れていた。
 短く喘ぎながら、彼の首へ腕を伸ばした。無我夢中でしがみつくと、自ら唇を塞いだ。どれだけ与えられても、飢えばかりを感じておかしくなりそうだった。
「ど、どうしてこんな……。喉が渇いて……」
「その飢えは回復の証拠です。供給はうまくいっています。ただ、癒しを受け取っていても、量が足りないと飢えを感じることがあるんです」
 ルドベキアはやや難しい顔をした。
「治癒の量を増やす方法は知っています。ですが、私はその方法を初めから提示しなかった。唾液を分け与えることでさえ、あなたが怯えていたからだ。あなたが望んでいるのなら、して差し上げますよ。やりたくないのなら、やる必要はない」
「……私は何をすればいいんですか?」
「与えられたものを受け取ってください。私は精液の提供ならできますから」 
 思いがけない言葉に目を見開き、アキレアは彼の顔を見つめた。
「い、今でさえ精一杯なのに……。でも、その方法しかないんですよね……」
 ルドベキアは顎に手を当てて考え込んだ後、ひとつの提案をした。実際に分け与えるかどうかは別として、どんなものだか、試してみませんか、擬似的な方法で。
 ルドベキアはアキレアの腰をしっかりと掴み、荒い息を吐きながら、下腹部を擦りつけている。アキレアは真っ白なシーツを掴みながら苦しげに眉根を寄せた。汗ばんだ肌に濃紺の髪が張りついている。布越しに彼の膨らみを感じ取り、それが擦りつけられる度に息が乱れた。履いていた衣服を脱がされ、さらけ出した脚を撫でられただけで腹に熱がたまるというのに、積もるばかりの快楽はまるで拷問だ。下着に手をかけられることはなかったが、濡れた音が嫌でも耳に入る。アキレアは呻きながら音の方に恐る恐る目を向ける。彼の下着の布地が張り詰めているのを見てしまう。熱に浮かされた、余裕のない彼の顔を見るのは初めてだった。
 精液の提供をするのは何ら問題ないが、そもそも相手が受け止めなければ治癒の増加には繋がらないとルドベキアは言った。今は腹が減っている状態であり、治癒を与えれば与えるほど腹が満たされるというわけだ。しかし、直接的な性行為となると、唾液による供給よりも体に負担がかかるため、無理をする必要はないと念を押された。そこで、まずは体を慣らし、行為への恐怖を軽減させるために「供給の真似事」をしてはどうかと彼は言った。
 彼の表情は苦しげではあったが、どこか夢見心地で、大事な宝物を見つめるかのようにぼんやりとしていた。
 薄い布越しに性器が擦れ合う度にアキレアの口から掠れた喘ぎが漏れた。ぞくぞくと寒気が背筋を這い上がり、思考が溶かされていく。自分が自分でいられなくなるような感覚に怯えながら、もう終わりにしようと何度も言葉にしようとしたのにもかかわらず、吐き出される嬌声は意味をなさない。甘ったるい声をこれ以上聞きたくないと口を閉じていると、ルドベキアの指がゆっくりと伸ばされ、唇に触れた。
「そんなに噛み締めたら、傷になってしまう……」
 不安げな呟きを聞き取った瞬間、口をこじ開けられ、すぐに彼の唇がおりてきた。強い熱を生む律動を続けながら治癒を流し込まれ、叩きつけられる快楽に頭が真っ白になってしまう。従順に唾液を飲み下しつつも、悲鳴のような喘ぎを繰り返し、全身をびくびくと震えさせる。こぼれ落ちた唾液を見つけると、彼は舐めとって、再び口の中へと押し入れた。彼の献身によって、自分が作り変えられてしまうような未知の感覚が胸にじわりと広がり、身をよじって快楽から逃げようとする。
 ルドベキアは与えられた喜びから逃れようとする彼女の腹をじっとりと撫でながら言った。
「ずっとあなたのことを慕っていました。癒しの力を取り戻すためなら、協力を惜しみたくない。一緒に乗り越えていきたいんです」
 腹に滑らした指先に、わずかだが力がこもる。
「あなたが望むのなら、私の持っているものを分け与えます。わかりますか。私のを入れて、注ぐんですよ、腹がいっぱいになるまで……」
 押し寄せる甘い痺れに全身が蝕まれ、体の中で炎が狂ったように燃えている。アキレアは波のように打ち寄せる快楽を逃がすことに必死だった。ルドベキアから距離を取ろうとするも、大きな手が腰にまとわりついて、ずるずると引き戻される。再び密着した下腹部から刺激が送られる。アキレアは彼の腕に手を伸ばし、静止を求めて肌を引っ掻くような真似をしたが、急速に膨らむ苦しくも甘美な快感に指先は震え、爪をうまく立てることができない。彼に触れている自分の指先が、さらなる刺激をねだり甘えているようにも見え、生まれ出た羞恥に襲われる。
 彼の手が一瞬腰から離れ、アキレアの指を捕まえて、深く絡ませる。
「苦しいですか」
 アキレアは涙をこぼしながら何度も頷く。意思とは関係なしに時折体が跳ね、背を反らせてしまう。なすすべもなく揺すられてばかりの自分は、彼にどう映っているのだろう。
 息を乱しながらも、ルドベキアは穏やかに囁いた。
「覚えてください、これは苦しみなどではなく……」
 続きの言葉を待っていたが、不意に強い刺激が襲った。再び彼の手が腰を掴んだかと思うと、穿つように性器が擦られると同時に、焼けるような熱に支配される。激しく揺さぶられ、意識は朦朧となって、開きっぱなしの口から溢れこぼれるのは、戸惑いと欲にまみれた熱っぽい感情だった。渦巻く快楽に体を乗っ取られ、びくびくと震えの止まらない自分自身に混乱しながらも、強烈な快楽の余韻に耐え忍ぶ。
 仰け反って晒し出された喉元にルドベキアは歯を立てる。掠れた嬌声が上がり、痙攣が止まらないアキレアの荒い息と震えを感じながら、柔らかな皮膚を味わっている。
 アキレアが落ち着きを見せてから、ルドベキアはようやく体を離した。
 下着はぐっしょりと濡れていた。少しでも身じろぎをすると、水っぽい音が響くほどだった。
「雨……」
 ルドベキアはのろのろと窓の方を見て呟いた。アキレアも気だるげに耳を澄ます。地面を打つ湿った音が夜の暗闇の中に広がっていた。
「今日は傘を持ってきていないんです」
 ルドベキアは熱を帯びた目でじっとアキレアを見下ろした。
「今夜は、このままそばに置いてください」
 アキレアはかすかに頷き、唇を開けた。彼の顔がゆっくりと近づき、蜂蜜のような治癒を流し込む。じりじりとした快楽に引きずられる戸惑いの中にありながらも、深い口づけを受け入れ、注ぎ込まれるそれを咀嚼した。