鈍色の空の下で海がごうごうと鳴っている。砂浜には真っ黒なコートとスーツに身を包んだ男が佇んでいる。格好からして、海水浴客ではなく、釣り人でもないことは容易に判断がつくが、仕事帰り、もしくは休憩中のサラリーマンかと言われると妙な異様さがある。陰りのある表情で波を見つめる姿は、喪に服しているかのようだった。目元には疲れが浮かび、彼から漂う陰気さを余計に強めている。奇妙な夢のことを考えだすと、眠気がうっかり飛び立ってしまうと話していたのは誇張でもなんでもなく、本当のことなのだろう。憂いを帯びた顔つきは、まるで悪魔のようだった。

「明日葉(あしたば)さん、早めに宿へ行きますか?」

 風で荒らされた僕の髪を見て、明日葉がわずかに笑みを作った。

「良い気晴らしにはなるが、深く眠れるのかどうかは雲行きが怪しいな」

「海が近い街へ行きたかったのは、波の音を聞くためでは?」

「自然の音を聞けば寝つきが良くなるかと思ったんだが……」

 どっと強い風が通り過ぎた。男のコートの裾もバタバタと音を立てた。

 明日葉はそっと肩をすくめ、海に目をやった。

「場所を移そう。静かな方が、君にとっても好都合だろう。レコーダーを使うんだったか?」

「ええ、取材の際には。録音して、そのあとに文字起こしに使います」

「役立ちそうな体験談が提供できればいいが、まあ、上手く使ってくれ。君の仕事も進めて、夜は早めに休もうか」

 僕たちは柔らかな砂の上を、とぼとぼと歩き出した。

 しばらくの間、風の音がこびりついて離れなかった。

 

 明日葉と関わるようになったのは、怪異との縁深さが原因のひとつだろう。

 僕自身は霊感が全くないが、不思議な現象に遭遇することが多く、恐ろしい目にあったことは山ほどある。怪異を扱う雑誌に体験談を投稿したところ、どうやら読者からの評判が良かったらしい。作家としてやってみないかと雑誌の編集者から声をかけられてから、僕はその道を歩み始めた。

 明日葉と知り合ったのも、その出版社を通じてであった。打ち合わせのために会社の事務室へ足を運んだ際に、明日葉と編集者が熱心に話し込んでいたのを見たのが初めての出会いだった。身なりは整っているが、黒いコートを着た明日葉はやや物騒で、表情もあまり変わらないこともあってか、なんだか近寄りがたい印象だった。

 編集者は僕に気がつくと、満面の笑みを浮かべて明日葉を紹介した。

「こちら、明日葉くん。不死身の探偵だよ」

「えっ?」

「不死身じゃありませんよ」

 僕の驚きと、彼の困惑と呆れが混じったような声が同時に吐き出された。

「明日葉くんは怪異専門の探偵なんだよ。記事は担当していないがね、話題提供者として協力してもらうことがあるんだ」

「探偵と呼ばれていますが、怪異の調査員みたいなものです。何かあればご連絡を」

 明日葉は名刺を僕に渡して、その場を後にした。

「不死身ってどういうことなんですか……?」

「ああ、明日葉くん、数ヶ月前に怪異に遭遇して大怪我を負ったんだ。でも今はすっかり元気になっている。だから不死身と呼んでいる」

 単に運が良かっただけではないか。呆れの視線を浴びても、編集者は平気で受け流した。

「そうだ、君も明日葉くんに話を聞いてみるといい。仕事柄、怪異については詳しいし、現場で会うこともあるだろうからね」

 その読みは正しく、後日僕は明日葉によって助け出されることになる。知らない土地で怪異に巻き込まれ、もうだめだと諦めそうになったときに、偶然にも僕を見つけてくれたのだ。安堵のあまり泣きついた僕を、彼は呆れもせず受け入れてくれたのだった。それがきっけかで、僕たちの距離は縮まったように思える。冷たく、気難しげな印象を明日葉に抱いていたが、実際にはそれほど冷酷ではなかったし、抜けているところも多々あると知った。今日だって、自然の音を聞けば寝つきも良くなるかもしれないと話しておきながら、風や波の音の大きさに驚いていた。どうして先にヒーリング・ミュージックを購入せずに、海辺の街にやって来たのだろう。小旅行をして気分転換を図りたかったのかもしれないが、効果はどうだろうか。海が駄目なら、次は森林浴を勧めてみようと思う。

 

 明日葉とは何度も会っているが、取材は今回が初めてだった。

「近頃、不思議な夢を見る」と話があったとき、それが怪異によるものだと僕はすぐに勘づいた。

「もしかすると、魂の一部が入り込んでしまったのかもしれない」

「魂……?」

「私は以前、調査中に大怪我をしたことがあってね」

「……聞いたことがあります。怪異に遭遇して大怪我を負って、でも回復してすっかり元気になったから不死身と呼ばれているんですよね」

「不死身ではないのだが、それは脇に置いておこう。……私は悪魔にのめり込んでいた集団の調査をしていたんだ。彼らは悪魔召喚の儀式を執り行おうとしていた。違法のね。儀式の生贄にはより強い魔力を持った悪魔が選ばれた。その悪魔は魂を食った罪人で、悪魔からも人間からも拒絶された存在だった。……私は調査中にヘマをしてね、捕まって生贄のうちのひとりとして、その悪魔と一緒に捧げられそうになったんだ。まあ、儀式は失敗に終わって、悪魔は召喚されなかった。魂喰いの悪魔と儀式を行っていた集団は消滅した」

「……それで?」

「私はそれから奇妙な夢を見るようになった。飢えを感じて彷徨う夢もあれば、誰かの記憶を覗き見ているような夢を見ることもある。私はふと、あの失敗に終わった儀式の際に、悪魔と一緒に消滅するはずの魂が一瞬離れて、そのかけらが私の体に入り込んだのではないだろうかと考えるようになった」

 悪魔は魂を持たない生き物だ。魂を得るには人間から食らうしか方法がない。しかし、実際のところ、魂を食う悪魔はほとんどいない。魂を一度口にしてしまったら、もうそれしか食いたくないと思わせる、悪魔にとっては中毒性のある禁断の食べ物だと言われているからだ。危険を犯してまで手に入れたいと思う悪魔は少なく、行動を起こした者は罰せられる運命にある。

「あのとき、私も死にかけていたからな。何が起きてもおかしくはあるまい」

「どうして僕にその話を?」

「君は多くの怪異と遭遇していると聞いた。職業柄、実体験だけでなく、人から聞いた話も多々あるだろう。解決策を知っているなら教えてほしい。私は迷い込んでしまった魂を返してやりたいと思う」

「返す? 一体どこへ?」

「魂の行きたい場所へ」

 明日葉は腕を組み、深く息を吸いながら目を閉じた。

「夢を見ると魂について考えてしまって、よく眠れないときもある」

「大変でしたね。何かお力になれることがあればいいんですが」

「君が良ければ、一緒に調べ物をしてほしい」

「魂の返し方についてですか?」

「ああ。取材のついでということでどうだろうか。再来月は悪魔の特集をやるんだろう。つい二、三日前にあの会社に行ったら、君も記事を書くと教えてもらってね。海にでも行こうかと思っていたから、そこで私が提供できる悪魔関連の話をしよう」

「海、ですか……」

「ところで、原稿は?」

「まだ取りかかっていません……」

 断る理由はなかった。

 

「では、夢の話を聞かせてくれませんか」

 僕はレコーダーの録音ボタンを押して、テーブルの隅に置いた。

 僕たちは予約した部屋に到着し、夕飯を済ませると、早速仕事に取りかかった。テーブルを挟んで向かい側にある椅子に腰かけた明日葉は、ジャケットを脱ぎながら、物珍しそうにレコーダーを覗き込んでいる。

 宿は海のそばにあったが、波の音が入り込むことはないだろう。明日葉の声も、海辺よりかはずっと鮮明に届いている。

「魂の本来の持ち主と悪魔の記憶が混ざり合って出てくるようなんだ。飢えを感じるときは悪魔の視点だとすぐにわかる。魂喰いの典型的な症状が出ているわけだからな」

「持ち主の記憶はどのような?」

「……それがね、ずっと幸せそうなんだよ」

「幸せそう、とは?」

「夢を見ると、心が温かくなるんだ。ずっと光に包まれているような温もりを感じることがある」

 明日葉は足を組み直し、深呼吸を一つした。

「初めは、悪魔の記憶だと思ったんだ。魂を食らって喜びに満ち溢れる記憶だとね。しかし、何度も見ていくうちに違和感を覚えたんだ。悪魔の記憶でないのなら、魂の持ち主、つまり人間側の記憶だ。被害者だとばかり思っていたんだが、おそらく、何かしらの理由があって魂を渡したのだろう」

「まさか、人間の方から魂を提供するなんてあり得るんですか?」

「今まで見聞きした事例の中ではないね。まあ、しかし、これが本当だとすると、そういうこともあるんだろうな」

 明日葉は顎に手を当てて考え込んでしまった。

「だからこそ余計に気になるんだ。もし、この魂が自分から離れたとして、またあの悪魔の元へ行こうとするのか……」

「見届けたいんですね」

「職業病のようなものだよ。魂の手助けができればそれで構わない。熟睡も約束されるはずだ……」

 あくびまじりで答えたあと、明日葉は眠たげに目を擦り、そのままだらりと椅子に身を預けて目を閉じた。

「……また一緒にいられるだろうか」

「明日葉さん?」

 バチン、と大きな音がして、部屋が真っ暗になった。彼の話に夢中になっていて気がつかなかったが、外ではごうごうと風が吹き荒れ、窓に大量の雨が叩きつけられている。雷が落ちた様子はなかった。

「停電ですかね」

 答えはなかった。

 ライトを探して彷徨わせた手に熱い温度がまとわりついたのは、恐る恐る立ち上がったのと同時だった。

「明日葉さん?」

 問いかけても彼は一言も喋ろうとはしない。彼の姿を捉えることができず、手首に留まる温度だけをぼんやりと受け止めていた。

 荒々しい波音が遠くで鳴っている。

「大丈夫ですよ。雷も近くにいないですし、すぐに復旧すると思います。ええと、ライトを……」

 話の途中で明日葉に抱きこまれ、ふと、人はこうも熱かったのかと思い知らされた。手首を掴んでいたあの体温が、胸の方へと這い上がった。指先が衣服を何度も優しく引っ掻いた。肌の奥にあるものを欲しているような動きに、僕はぞっとした。それから、彼は胸に頬を埋めたり、ぴたりと耳を寄せたりし始めた。悪魔が魂を捉えようと甘える際に見せる動きとほとんど同じだった。それは文献で得た知識であり、実際に見たことも体験したこともなかったが、たった今、暗闇の中で意思を持って動いている目の前の人物は、明日葉ではないことは明白だった。

「僕は魂の持ち主じゃない! 目を覚ますんだ……!」

 明日葉は動きを止めようとはしない。

 胸に口付けていた唇が、首元に触れた。目眩がする。彼の熱に侵食される感覚をずっと味わっていたいと思ってしまう。

 しかし、引きずり込まれるわけにはいかない。這い寄る眠気を振り払うように、彼の体を引き剥がしにかかった。

「明日葉さん! しっかりしてください!」

 暗闇に向かって頭突きをすると、再び、バチンと大きな音がした。

 僕は額を抑えて数十秒ほど地面に転がっていたが、痛みに負けないよう、勢いよく立ち上がった。部屋は光を取り戻し、雨の勢いは弱まっていた。

 明日葉は椅子に座ってぐうぐう眠っている。額がやや赤みを帯びている。

「明日葉さん! 起きてください!」

 力一杯肩を揺らすと、眉根を寄せた明日葉がのんびりと口を開いた。

「……ああ、すまないね、眠ってしまっていたようだ。取材中に申し訳ない」

 明日葉はゆったりとあくびをすると、不思議そうに僕を見つめた。

「どうした? 顔色が良くないな」

 明日葉の優しい眼差しを受けて、ようやく彼が戻ってきたのだと涙が出そうになった。

「あ、明日葉さん……!」

 僕は彼の膝にすがるようにくず折れた。

「ああ、よかった、明日葉さん……」

 涙ながらに繰り返す僕を落ち着かせるために、明日葉は背中をそっと撫でた。

 頭上から柔らかな声が寄り添った。

「悪魔の話は苦手か? 怖がらせてしまったかな」

「もしかして、何も覚えてないんですか? さっきまで停電していたことは?」

 返事の代わりに、明日葉は首を傾げた。額が痛み出したのか、難しい顔をして赤くなった部分を触っている。

「私も暗闇にいたはずだが、眠っていたからな。夢でも見ていたのかもしれない……」

「あっ、そうだ! レコーダー! 音が入っているはずです。大きな音がして部屋の光が消えて、それから……」

 がばりと立ち上がり、テーブルに置きっぱなしのレコーダーに手を伸ばす。録音停止ボタンを押し、中身を再生した。数時間分は必ず録音できるようにと、取材前に容量も確認済みだった。しかし、手元に残ったデータには、僕たちの声は記録されていなかった。ザザ、ザザとノイズのような音が入り込んでいる。その音の正体が波だと気づくのにそう時間はかからなかった。

 呆然と立ち尽くす僕に、「言い忘れていたんだが」と明日葉は声をかけた。

「悪魔と魂の持ち主の記憶を夢に見ると君に話したが、ある場所がよく夢に現れるんだ。どこだと思う?」

 僕はレコーダーを握りしめた。

「ある場所って、まさか……」

「そう、海だよ」

 明日葉はにっこりと笑った。

「砂浜を並んで歩く夢や、水平線を眺める夢、冷たい風の感触や水中での遊び……。彼らの思い出の地に行けば、深い眠りを味わえると思ったんだがね」

 あの暗闇で起こったことは全て、魂が僕に見せた夢だったのだろうか。確かに、あのとき僕のそばにいたのは明日葉の姿をした何者かで、決して「本物」ではなかった。彼が僕の魂を求めるはずがない。あんなこと、現実では起こり得ないと初めからわかっていたじゃないか。

 ぶつけた額がじくじくと痛みを訴えたが、どうすることもできなかった。

 ゆっくりと立ち上がった明日葉が、僕の顔をじっと覗き込んだ。

「大丈夫か? 悪夢でも見たような顔をしているよ」

 僕はただただ見つめ返すことしかできない。

「額が少し腫れているね」

 前髪をかき分けて僕の肌にそっと触れた指先は熱かった。暗闇の中で与えられた熱を思い出してしまい、僕の手からレコーダーが滑り落ちた。

 レコーダーからは、波の音がしばらく消えなかった。