死なば諸共(R18)

 柚希が下腹部に現れた奇妙な模様に気づいたのは、行方不明の友人を見つけ出した翌朝のことだった。

 鮮やかな色をしたその模様は、当初花の蕾を模した形をしていたが、次第にほころび始め、それと同時に蔓や葉のような模様までもが肌を覆うようになった。自分の指で何度こすってみても消えず、気味が悪く思ったが、それは時間が経つごとに成長し、起床から二時間後には鼠蹊部にまで広がった。

 外では梅の花が香る中、湿っぽい春の雪が昨晩から降り続いている。季節外れの冷たい空気が部屋に忍び込んでいたが、柚希は暖房もつけずに、ベッドの上で身を丸めていた。肌が粟立っているのは寒さのせいではなかった。じっとりと浮き出た汗をぬぐいながら、どうすれば全身に巡る甘く重い痺れから逃げることができるのだろうと唸った。ざわざわとした、腹部に広がる熱の波に瞼を撫でられて目を覚まし数時間が経つが、火の勢いは増すばかりだった。

 口に流し込まれた昨日の花の味を思い出し、柚希はいよいよ恐ろしくなった。

 このままじっとしていては気が狂ってしまう。よろよろと立ち上がると、鞄から名刺入れを取り出し、その中の一枚に書かれたある怪しげな宣伝文句に目を落とした。

『皆様のお悩みを解決します! 開運、縁結び、厄払いなど呪いでサポート! 安心・安全・秘密厳守。相談・見積もり無料です。呪いの代行承ります』

 

 青年はいつもの仏頂面で柚希を迎えた。

 呪いという言葉からして、事務所のカーテンはいつも閉め切られ、光の入らない真っ暗な部屋で藁人形やお札でも作っているのかと思っていたが、初めて来たときには勝手な想像と現実の違いに戸惑った。事務所は白く塗られたごく普通の二階建てのビルに入っていた。階段を上ってドアを開けると、小さなベルがからからと甲高い音を鳴らす。応接間には明るい蛍光灯が灯され、少しくたびれた革張りのソファーと低いテーブルが置かれていた。

 昨日の疲れが抜けきっていないのか、彼は眠たげな様子だったが、柚希が涙ぐみながら助けを求めるとすぐに真剣な顔つきになった。

 柚希はスカートをたくし上げ、恥ずかしさからこみ上げる震えを押さえつけるように裾を掴み、おずおずと尋ねた。

「柏木さん、これって、悪い呪いなんでしょうか……」

 顔だけではなく、耳も首も真っ赤に染まっていることだろう。部屋の生温い空気がさらけ出した脚にまとわりつき、肌をくすぐった。

「……これはいつから?」

 言葉を失っていた柏木がようやく口を開いた。顔が強張り、目に動揺が浮かんでいる。

「今朝気づきました。最初は小さな蕾の模様だったんです。でも、模様が広がっていって……。ど、どうしましょう。やっぱり、昨日の植物園が原因なんでしょうか」

「十中八九そうだろうな」

「私、死んじゃうんですか……?」

 昨日彼と植物園に向かったときに見せた意気込みは今や見る影もない。友人を助けるためならばどんな目にあっても乗り越えてみせると張り切っていた勢いはどこへ消え失せたのかと、柏木もあっけにとられている。

「不安だと思うが落ち着いてくれ。ちょっとだけ調べさせてほしい」

 柚希はぐずぐずと鼻を鳴らしながら頷いた。

「すまない、少し触るぞ……」

 彼の指先がそっと肌を撫でる。

 自分で触ったときには何も感じなかったのに、腹の底に熱が溜まっていく感覚に柚希は困惑した。体の内側で炎が燃え出したように頭がくらくらする。彼の指が動く度にじりじりと焼けつくような痺れが全身に広がり、思わず声が出てしまう。高く掠れた声を抑えるため、スカートをたくし上げていた右の手を口元に持っていく。

 柏木の手が腹から離れ、スカートを握りしめているもう片方の手を優しく解いた。さらけ出されていた肌は隠れたが、羞恥と腹に残る甘い痺れは体を蝕み続けている。

 彼はコートを引っ掴むと、じっと柚希を見つめた。

「柚希さん、香水はつけてないよな?」

「え? はあ、使っていませんが……」

 どうしてそんなことを聞くのだろうと怪訝に思ったが、見上げた柏木の表情があまりにも深刻で、言葉を投げることができなかった。

「急いだ方がいい。今から専門家のところに行く」

 

 友人の捜索を彼に依頼したのは、部屋に残されていた名刺がきっかけだった。

 梅の花が開き始めた頃、突如として友人が姿を消した。彼女とは大学からの付き合いで、柚希と同じく芸術学部に在籍していた。二人揃って大学院に進学し、修了後彼女はデザイン関係の仕事をするようになり、柚希は大学に残り事務のサポートをしながら創作活動を続けていた。

 大のオカルト好きでもある友人は心霊スポットや怪異というものに興味があり、そういった類の本や映像作品を好むだけでなく、不思議な噂のある場所には実際に足を運ぶこともあった。

 今回、友人が目をつけたのは怪物が出る植物園だった。

 失踪前に柚希は友人とある動画を見た。それは夜の遅い時間帯に撮影されたものだった。林の中を撮影者が歩いていると、遠くにぼんやりとした光りが現れる。それに向かってさらに歩みを進めると、廃墟の植物園が登場する。建物は朽ちているというのに、植物は生き生きとして鮮やかだ。そこには楽園のような華やかさと静けさがあった。瑞々しい葉や美しく咲き誇る花々が空間を埋め尽くしている。植物たちに近寄ってじっくりと見てみたいと感じてしまうほどに、柚希たちはその光景に釘づけになった。撮影者はゆっくりと中に入っていったが、突然大きく葉が揺れたことに驚き、ぴたりと立ち止まる。葉はさらに揺れ動き、がさがさと耳障りな音が大きくなる。撮影者が後ずさった瞬間、まるで意思を持っているかのように植物の蔓が飛びかかってきた。何本かの蔓は地面を這い、足首にまとわりつこうとする。がたがたと揺れる画面から聞こえるのは叫び声だけだ。動画はその後も続くものの、全力で走っているせいか、画面はぶれるばかりで何かを映そうとする余裕はない。撮影者は大きな道に出て、急いで車に乗り込んだ。植物から逃げきった後、この動画を投稿したというわけだ。

「これって、植物の魔族ってやつかな」

 友人は興奮気味に言った。どうやら、植物を操る怪物が時折人間を襲うという噂があるらしい。この動画の投稿者と連絡を取り、怪異と遭遇した場所を聞き出したのだという。嬉しそうに植物園の場所を話し出す友人を見ながら、柚希は肩をすくめた。

「やめておきなよ」

 どちらかというとこの類の話は苦手だった。ホラー映画やお化け屋敷に対して苦手意識はあまりないものの、人間を襲う得体の知れない存在がいる植物園にわざわざ行きたいとは思わない。仮にあれが人間のいたずらだったとしても、夜中の廃墟であんなことをして面白がっている人物の元を訪ねるなど、非常に危険だ。どんな目にあわされるか、想像しただけでもぞっとする。

 こちらの心配を他所に、友人の目は輝きに満ち溢れていた。嫌な予感が背筋を流れた。

 この会話を最後に、友人の姿を見ない日が何日も続いた。

 柚希は友人が住むアパートを訪ねたが、ノックをしても声をかけても何の反応もない。管理会社に連絡し鍵を開けてもらい、部屋に入ったが空っぽだ。風邪でも引いて倒れているのではないかと心配したが、出かけたきり戻っていないのかもしれない。まさか、本当にあの植物園へ行ったのだろうか。不安に押し潰されそうになりながらも、行き先の手がかりはないかとリビングを見回すと、机の上に開きっぱなしの雑誌と地図が残されていた。表紙を見たところ、友人が好んで読んでいるオカルト情報誌であることがわかった。

 見るからに怪しげな雑誌を手に取り、記事の見出しを眺めた。

『異界からの魔物は実在する! 襲いかかる恐怖、消えた三人の呪術師の行方は? 奇跡の生還者に独占取材!』

 ざっと目を通してから再び机へと戻そうとすると、どこかのページに挟まっていたと思われる名刺がぽろりと滑り落ちた。紙には柏木誠司という名と事務所の住所が記載されていたが、柚希の注意を引いたのは、あの胡散臭い宣伝文句だった。

 名刺を頼りに事務所へと足を運ぶと、そこには長い髪をひとつに束ねた仏頂面の青年がいた。友人のことを尋ね、事情を説明すると、彼の眉間のしわがさらに深くなった。

「……植物園には行くなと言ったんだがな」

「どうして場所を教えたんですか! あんな危ないところ……!」

 彼は声を荒げた柚希を見てちょっと驚いたような顔をした。

「一体何の話だ? 俺はあの動画を見せられて、これは植物の魔族の仕業なのかと聞かれただけだ」

 今度は柚希が首を傾げる番だった。彼が動画の投稿者だと思い込んでいたからだ。

 先ほどの証言通り、植物園には絶対に近づくなと彼はきつく言い聞かせたようだが、友人はその警告を無視したのだろう。あの怪物はひとならざるものであり、呪術師である自分が対応に当たると説明したらしいが、余計に好奇心を刺激してしまったのかもしれないと、苦々しい表情を浮かべた。

「お願いです。一緒に友達を探してくれませんか」

「一緒に?」

「はい。私とあの植物園に行ってください。今すぐに。もし怪物に襲われて身動きがとれない状況にあるなら、助けないと……」

 そのとき、電話のベルがけたたましく鳴った。彼は柏木と名乗り、静かな口調で対応していたが、最後にはむっとした様子で受話器を置いた。柚希が粘り強く懇願する間にも何度か電話が鳴っていた。

 動画の投稿者でないのにもかかわらず、どうして友人は彼の元を訪れたのだろう。植物の魔族とやらに特別詳しいのだろうか。オカルト界隈ではかなりの有名人で、人気の呪術師なのだろうか? 鳴った電話の回数からすると、どうやら彼に仕事を頼みたいと望む客はそれなりにいるのだと思っていた。しかし、ほとんどは依頼ではなく、呪い以外のことを聞きたがるのだと、彼はうんざりしたように肩をすくめた。

「とにかく、君は待機だ」

「皆様のお悩みを解決しますって名刺に書いてあるじゃないですか!」

「友人探しの依頼は受けるが、あの場所に行くのは危険だ。仮に友達を助け出せたとしても、今度は君が襲われる可能性だってある」

「それでもいいんです。友達が無事であれば」

 柚希は引き下がることはしなかった。彼の言う通り、ここで待っていた方が安全であることは十分に承知している。ぶっきらぼうで突き放すような態度をとっていても、言葉の端々にはこちらの心配をする彼なりの優しさがあることもわかっている。理解はしているのだ。

「彼女にはいつも助けられました。つらいときも楽しいときも、一緒の時間を過ごせてよかったと思います。だから、彼女が困っているときには力になりたいんです。膝を抱えながら友人の帰りを待っていても意味がないんです。もともと都市伝説とか、得体の知れない存在とか、不思議な話が好きだったから、いつものことかと思って強く言わなかったけど、もっと忠告していればこんなことに巻き込まれなかったかもしれないし……」

 柚希はしっかりと頭を下げ、きっぱりと言った。

「もしものことがあったら、私を囮にして友達を助けてください」

 顔を上げると、彼は口を閉ざしたままだった。遠い目をしながら、思いつめた表情をしている。この提案に同意するかどうか悩んでいるというよりも、何か別のことに気をとられているようだった。

「そんなことを言わないでくれ」

 わずかに顔が歪む。そこに怒りや呆れは見当たらないが、悲しみが滲んでいる。これは禁句だったのだろうか。依頼を受けてもらえなかったらどうしようかと、柚希は内心ひやひやした。

「でも、そうなってでも助けたいんです。お願いします」

 迷いを見せた表情が次第に落ち着きを取り戻し、最後に彼は大きなため息をついた。どこかに電話をかけてから、再び柚希へと向き直った。

「……そのお願いは聞いてやれないが、条件を呑むなら連れて行こう」

「条件って……?」

「皆で生きて帰ることだ」

 

 その場所では植物が青々と茂っていた。手入れなどされているはずのない植物園には、様々な種類の植物が溢れかえっており、鬱蒼とした木々は友人を閉じ込めているように見えた。廃墟となった植物園の天井や壁はすでに朽ちているが、隙間風は全く感じられない。外では春の雪が舞っているというのに、足を踏み入れてからずっと生暖かい温室のような空気に取り囲まれている。

「ありがとうございます。一緒に来てくれて」

「ここからが正念場だぞ」

 柏木は折りたたみ式の小型ナイフを二本取り出し、その内の一本を柚希に渡した。

 ないよりマシだろう、と言う彼から手渡されたナイフをじっと見つめてから、震えを隠すように強く握った。

「友達と約束していたんです。来週公開のヒーロー映画を観に行こうって。前作も一緒に観に行ったから」

「へえ」

「私、今作をずっと楽しみにしていました。仲間と困難に立ち向かう話が好きなんです。子供の頃からそういうのが好きで、ずっと憧れていて……」

「ふうん」

「ヒーローが一致団結して戦うのってぐっときませんか? 運命共同体ってやつですよね! 私たちも!」

「運命ね……」

「どんな強敵が現れても乗り越えてみせます! 死なば諸共ですよ!」

「死んでどうする……」

 話をちゃんと聞いていたのかと言いたげに睨まれる。

「いいか、安全のために俺から離れないでくれ」

 しかし十分後、柚希は柏木とはぐれてしまった。植物の間を縫うようにして駆け抜ける友人の後ろ姿を見て、思わず追いかけてしまったのだ。だが、視線の先に友人の背中をはっきりと捉えたというのに、柏木は走り出そうともしなかった。彼には見えなかったのだろうか? 華奢な体が軽やかに走り出し、栗色の毛先が植物園の奥に吸い込まれていくのを。

 彼の言葉を無視し、なんてことをやらかしてしまったのかと後悔しながら、どこからともなく漂う花の匂いの中を慎重に進んで行くと、地面が白い花で覆われている開けた場所に出た。香りが一層強くなり、柚希は思わず顔を歪ませて咳き込んだ。日が沈みつつある中、鉛色の空から湿った雪が降っているというのに、この植物園はやけに明るい。偽物の日の光を見せられているかのようだった。気味の悪さを感じながらも、柚希は手に持ったナイフを握りしめると、震える足を動かして奥へと進んだ。

 たとえ恐れが心にあったとしても、強がっているくらいがちょうどいいのだと、自分自身を説得してここまでやってきたというのに、彼の姿を見失っただけで心細くなってしまうとは思いもよらなかった。この世の不機嫌を煮詰めたようなあの仏頂面が今となっては懐かしい。植物園に連れて行けと無理を言って困らせた挙句、行方不明になった友人を見つけるはずが、自分が迷子になってしまったことがひどく情けなかった。

 無我夢中で友人の背を追いかけたが、今思うと、あれは幻覚だったのではないだろうか。柏木によると、植物の魔族は元来攻撃的な性格ではないらしい。基本的に戦闘を避ける傾向にあり、普段は種族同士で支え合う生活を送っているそうだ。彼らは植物を操るだけでなく、花の香りで獲物をおびき寄せたり、幻覚を見せて弱らせたり、惑わせたりする能力を持つ。繁殖期になると大量のエネルギーを必要とするため、栄養補給のために動物を養分にすることもある。あの動画のように人間を襲ったのは餌不足が原因で、単に腹が減っていたのではないかというのが柏木の見解だ。

 比較的穏やかな種族だと聞き、気が緩んでしまっていたのかもしれないが、相手の罠に引っかかるつもりなどなかったのにと、ただただ不甲斐ない。

 正体不明の敵に果敢に立ち向かったつもりであったが、自分がしでかしたのは、勇敢さの欠片もない、ただの無謀だった。

 柚希の歩みに合わせて足元の白い花が揺れる。まるで雲の上を歩いているようだった。柚希はごしごしと目元をこすった。

 白い花の中を抜けると、何十年もここで育てられたかのような背の高い植物ばかりが集められた空間にたどり着いた。天井は高いが、さほど広さがあるわけではなかったため、柚希は大量の蔓に囲まれた友人が部屋の奥に横たわっているのにすぐに気がついた。

 植物たちはゆりかごを作るように彼女に寄り添っていたが、全身に絡みついた蔓は彼女を引き離すまいときつく縛りつけていた。青白い顔を囲む鮮やかな花々は、濃厚な甘い芳香を放っている。 

 柚希は友人の元へ急いで駆け寄った。何度も声をかけて肩を揺さぶっても、目を覚ます気配はない。むせかえるような甘ったるい匂いが渦巻くこの異様な場所から逃げ出そうと、ナイフを使って彼女の体から蔓を引き剥がそうとする。

 友人に傷をつけないようにと刃を入れていくが、次第に頭が霞みがかったようになり、手にうまく力が入らない。大声を上げ、自分の居場所を知らせ、助けを呼び、友人を運び出さなければいけないのはわかっている。だが、強烈な眠気に襲われて行動に移すことができない。

 手を止めた瞬間、先ほど切り払ったはずの植物が勢いよく手首や足に絡みついてきた。急いで振り払おうとしたが、抵抗は意味をなさず、すぐに強い力で引っ張られた。地面に横たわる彼女に手を伸ばそうとするが、体にいくつも群がる蔓に自由を奪われ、倒れ込んでしまう。手から滑り落ちたナイフを掴もうとしても、腕を後ろ手に縛られてしまってはなす術がない。全身の自由などなくなってもなおきつく締め上げられ、苦しさを感じ、浅い呼吸を繰り返す。

 意思を持つ植物は喉に巻きついたかと思うと、次々に口に群がった。無理やり口をこじ開けると、すぐに色とりどりの花が投げ込まれていく。砂糖のような甘みが広がり、とろけるような舌触りに食欲を刺激されたが、わけのわからない存在から与えられたものを飲み込んではならないと、頭の中で警鐘が鳴っている。開きっぱなしの口からはよだれが流れ、舌に張りついた花弁が気持ち悪かった。飲み込まないようにと抵抗を続けるが、自分を冷静に見つめる視線を感じ、混乱しながらも辺りを見回そうと目を動かす。囁くように葉が音を立て、それに応えるように大きく木々がしなる音がする。まるで会話をしているかのような不気味さに、心の底から恐怖が這い上がる。ごうごうと風が吹き荒れ、こちらをあざ笑うように葉はざわめいている。その音に紛れて、頭の近くで、ずるずると何かが這い寄る音が聞こえたかと思うと、木の枝のように硬い何者かの指が背後から伸びて口内に入り込んだ。瓶を握ったもう片方の手が視界に映り込み、瓶の蓋を器用に開けると、中に入っていた透明な液体を流し込む。とろみのある液体とともに、色鮮やかな花びらは喉から腹へと進んでいく。腹に溜まれば溜まるほど体は熱を持ち、巻きついた植物が肌に擦れる度、じわじわと沈み込む毒のような刺激が与えられる。胸をかき乱したくなるほどの熱に翻弄され、喘ぎ続けていても、植物は食事を提供し続ける。口周りは液体のせいでどろどろだ。粘り気のあるそれは顎を伝って喉へと垂れていく。口をこじ開けていた手がするりと腹部の方へと滑り込み、大事そうに下腹部を撫でている。

「やめろ!」

 男の鋭い声が聞こえたが、柚希の意識は遠のいていった。

 

 仏頂面はドアを開けた。

 専門家がいると連れて来られた場所は、一見大きな画材店のようだった。商品棚にはインクや絵の具が並んでおり、その他にもペンなどの文房具や呪術書がぎっしりと陳列されている。柏木は受付の担当らしき人物にアトリエを呼び出してほしいと伝えている。

 下腹部から広がる強い快感に息を詰まらせ、柚希はその場にしゃがみ込み、ぼろぼろと涙を流し始めた。柏木も柚希に合わせて屈み、ハンカチを差し出した。

 柚希は礼を述べてから受け取り、目頭を拭った。

「大丈夫か」

「体が熱くて……。自分ではどうにもできないんです……」

 すっかり弱気になっていたが、友人もこのような目に合わされていたのかもしれないと思うと、湧き上がる怒りをぶつけたくなった。

 植物園に向かう前に柏木が他の呪術師にも連絡を入れていたおかげで、比較的早くに応援が到着し、無事に友人を救出するに至った。彼らの迅速な対応が功を奏し、植物の魔族もすぐに捕らえられたのだ。その後、植物園にあった生命たちはあっという間に枯れてしまったらしい。

 発見された友人は昏睡状態にあったが、運ばれた病院で目を覚まし、自分の身に起こったことを話した。植物たちに襲われ、あの場所でずっと眠っていたのだという。念のため一日だけ入院をすることになったが、命に別状はなく、回復の傾向にある。

 これらは全て柏木から聞いた話だ。

 植物に襲われてからその後の記憶が柚希にはない。柏木によると、体に異常はないとしきりに繰り返し、早く家に帰りたいとわめいていたらしい。体調に変化があればすぐに連絡するようにと伝えてその日は解散となったが、もしかすると、魔族の呪いが思考に干渉し、こちらの行動を思いのままに操っていたのではないだろうか。呪術師たちから離れ、邪魔の入らない場所でじわじわと自分の餌を奪った人間を苦しめようとしたのかもしれない。

 受付はセキチク色の髪の女性を連れて戻ってきた。その女性は笑顔を浮かべながら、昨日ぶりだと柏木に声をかけている。

 彼は相変わらずむっとした顔をしていたが、ぎゅっと結んでいた口元がわずかに緩んでいるところを見ると、機嫌を悪くしているわけではなさそうだった。

「頼みがある。彼女に取りついている花の紋を診てやってほしいんだ」

 女性はアトリエと名乗り、呪術師兼デザイナーだと言った。柏木の同僚であり、昨日植物園に駆けつけた呪術師のひとりである。柚希はまるで覚えていないが、救出された友人に呪いが施されていないか診察したのも彼女だと柏木が教えてくれた。

 デザインに携わっている呪術師もいるのかと柚希は興味を持ったが、体に丹念に刻み込まれていく快楽のせいで詳細を尋ねる余裕はなかった。

 呼吸はますます荒くなり、頭が朦朧とし始めた。地下に続く階段を下る彼女の背中を追わなければならなかったが、駆け下りる元気もなく、手すりに掴まりながら、踏み外さないようにとゆっくりと進んだ。よろよろと歩く姿を見かねてか、「大丈夫か」と柚希の背に何度も声がかかった。

 柚希は後ろを振り返り、柏木に話しかけた。

「なんだか現実とは思えません。あの植物の魔族とか、呪いとか、夢でも見ているんじゃないかって」

「……怖い思いをさせてすまなかった」

 自責の念に駆られている彼の姿を見て、自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。

「私こそ、本当にごめんなさい……」

「突然走り出したときはどうしたのかと思ったが、幻でも見せられたんだろう」

 柚希がうなだれたまま頷くと、すぐに柏木の口から重いため息が漏れた。

「依頼主の安全を確保できなかったのは俺の責任だ。生きて帰ることが条件だと言ったのにな。これじゃあ請け負った仕事をこなせていないことになる」

「生きて帰っても、こんな呪いをもらったら普通の生活には戻れないですもんね……」

「心配するな。俺もアトリエも協力する。彼女は腕のいい呪術師だ。特にこの手の分野には強い」

「でも、これが原因で死んでしまったらどうしよう……」

 ぐずぐず泣き始めた柚希を見下ろして、柏木は静かに言った。

「行くんだろ、映画」

 柚希はえっ、と声を上げ、目を見開いた。植物園で話した、友人との約束のことだ。興味などないと聞き流しているように見えたが、まさかあの会話を覚えていたとは。

 黙ったままの柚希を、柏木は怪訝な顔つきで見つめた。

「楽しみにしていたんじゃなかったのか」

「はい。そうですけど……」

「だったら尚更元気になって帰らないとな」

 笑顔を浮かべることはなかったが、声は優しい響きを持っていた。柚希は困惑した。仏頂面に深い安堵を覚える日がくるとは思ってもいなかったのだ。

 階段を下りると、「アトリエ」と刻まれたプレートが掲げられているドアの前に案内された。柏木は入室せず、別室に向かった。どうやら調べ物があるらしかった。

 怖気づきながらも部屋に入ると、まず目についたのは壁際に並んだ大きな本棚だった。大学の図書館を思わせるような背の高い棚の中には見慣れない本がぎっしりと詰まっている。呪術の専門書だろうか。厚みのある古びた本に興味を引かれたが、立っているのがやっとの状態であったため、中身を確かめることはしなかった。部屋の奥には大きな机があり、その上に様々な色のインクやドライフラワー、さらにはしなびた球根のようなものが出しっぱなしになっている。机の隣には小さな木の引き出しがぽつりと置かれていた。柚希の視線に気づいたアトリエは机を指差し、あれが作業台だと言った。デザイナーだと言っていたが、どんなものを作るひとなのだろう。自分は芸術学部出身だと話を切り出すと、アトリエもこちらに興味を示し、また今度ゆっくり話をしよう、お菓子を用意して待っているからと約束してくれた。

 アトリエはにこにことひとの良い笑みを浮かべながら、柚希にソファーに座るよう勧めた。柚希は彼女の言葉に従った。

 腹に居座る模様を確かめると、呪いはすでに胸のあたりにまで広がっていた。

「早く来てくれてよかったよ。呪いが思ったよりも進んでいるから、すぐに処置をするね」

 アトリエは部屋の奥へ行き、氷の入ったグラスを持ってきた。

「氷……?」

「それ、実は薬。今すぐ食べて。植物の成長を少しの間だけ止めるから、その呪いの侵食も一時的に落ち着くと思う。気分が落ち着いたら、今後のことを柏木と話し合いましょう。呪いを解くことに関しては彼の得意分野だしね」

「そうなんですか?」

 柚希は柏木のことなど何ひとつ知らないことに気がついた。友人を探し出すことに一生懸命で、彼の経歴や評判について確かめることをすっかり忘れていたのだった。

 柏木やアトリエが所属している呪術師たちの組織は全国に事務所を構えており、柏木はもともと本部で働いていたのだが、半年前より今の支部の担当となった。彼は呪いの解除を得意とするため、主に厄払いの依頼を受けることが多いそうだが、お祓いのために現地に赴くと、今回のような得体の知れない怪物に出会ってしまうこともままあるようだ。

「柏木さんって前からあんな感じなんですか?」

「あんな感じって?」

「全然笑わないし、いつもむすっとしているし……。悪いひとじゃないってことはわかりますけど」

「前はよく笑っていたけどね」

「えっ、そうなんですか? いつからああなっちゃったんですか?」

「半年くらい前かな。まあ、顔はちょっと怖いかもしれないけど、仕事はきちんとやるやつだよ」

 アトリエは柚希の服を整えると、体調は大丈夫かと尋ねた。

 問われてから、いつの間にか気分が落ち着いていることに気がついた。氷の薬のおかげだろうか。霧が晴れたように意識もはっきりし始め、体を苛んでいた火もすっかり弱まり、呼吸が楽になった気がする。

「花の匂いも弱まったし、これで数時間は大丈夫ね」

「花?」

「この呪いはあなたを苦しめるためにつけたものだけど、餌としての印も兼ねたものでね。植物の魔族は支え合いの種族とも呼ばれているから、この子が新たな餌で、お互い分かち合いましょうってわかるように香りづけをするんだよ」

 自分から花の匂いがすることに全く気づいていなかった。だから事務所を訪れたとき、柏木は香水をつけているのかどうか聞いたのか。

「その呪いを体に植えつけられるとより快楽を拾うようになったり、命令に従いやすくなったりするの。君が友達を助けたことで、魔族はせっかくの餌を奪われたと思って怒ったのね。だから今度は君が代わりになれと呪いをかけた。奴らは快楽の味が好みでね。じわじわと意思を奪って、屈服させるのよ」

「……冗談じゃないですよ! 友達のことを餌にしておいて、私も餌にするつもりだったなんて!」

 そのとき控えめなノックの音が飛び込んだ。

 アトリエは微笑みながらゆっくりとドアへと向かった。廊下には柏木が立っており、腕に百科事典のような大きな本を抱えている。

「やっぱり植物系の呪いだったわ。凍らせておいたから、今のうちに早く焼いた方がいいよ」

「火種は?」

「あるよ。在庫はたんまりあるから好きなだけ使って」

「消したら魔除けが必要になると思う。依頼者との相談ありきだが」

 柏木は大げさにため息をついた。

「守護の力を持つものがほしいんだが……」

「今からすぐに作るよ。基礎はできているから、体への負担が少ないものにしておくね。細かいところは後で調整して」

 アトリエは作業台の隣の引き出しを漁ると、中にあるものを布袋に詰めていく。丸い薬のようなものが数粒ぽろぽろと床に落ちた。

 柏木は袋を受け取り、礼を述べた。

「柚希さん、今後のことで相談がある」

 柏木は柚希の隣に座り、手に持っていた古めかしい本をめくると、ある項目を指差した。そこには植物の魔族の外見、特徴、生息環境、食性、生態、能力などの情報が書かれていた。

「今の君について説明すると、友達の代わり、つまり次の餌だと目印をつけられている状態にある。他の植物の魔族が君を襲う可能性があるんだ」

「それで、どうすればこの呪いは解けるんですか?」

「まずは燃やす」

 差し出された柏木の手のひらの上には丸い形をした食べ物があった。先ほどアトリエが袋に詰めていたものだろう。

 暗い赤色のそれを、彼は薬だと言った。火種と呼ばれるもので、中に炎を閉じ込めているのだという。

「これを飲み込んで、内側から植物の紋を燃やすんだ。炎といっても、呪いにだけ効くようになっている。体内が焼けることはない」

 柚希は柏木の手から薬を受け取った。

「……わかりました。私は被害にあった友人のためにも、もう餌になんかなってやらないと魔族に示さなきゃいけないんです。好き勝手にはさせません! この薬を飲んで、植物の紋を燃やします。他に対抗策はありますか?」

「花がなくなったとしても、植物の魔族が君を再び襲わないという保証はない。奴らは狙った獲物をよく見ているからな」

 ぐしゃぐしゃと頭をかき回し、柏木は嫌そうに顔をしかめてみせた。

「お守り代わりと言ってはなんだが、新しい紋をつけるぞ」

 言葉の意味がわからず、柚希は視線だけを向ける。

「君に魔除けの紋の種を飲んでもらう」

「種?」

「今君の腹についている呪いを再現して、俺たち人間にも扱いやすいよう改良したものだ。種には魔除けの紋が組み込まれている。君が飲んで俺が呪いをかければ、すぐに芽を出す。蕾が膨らみ、花開けばそれで完了だ。君に害を加えるようなことはしない。だが、この紋は宿り主の快楽を得れば得るほど効果を発揮する。つまり、君には呪いを燃やした後、もうひと頑張りしてもらわなきゃならない」

 新たな花を植えつけることで、魔族の餌ではなくなったことを示し、魔除けの効果によって敵を近寄らせないようにするのだという。柚希にとって、自分の体は餌ではないと見せつけることができるのなら、喜ばしい話ではあった。しかし、先ほどまで嫌というほど味わっていたあの快楽を思い出して、すぐには頷けなくなった。処理しきれない膨大な熱と思考を溶かす強烈な快感を再び叩きつけられるのかと思うと、戸惑いを覚える。激しく打ち寄せる快楽に朦朧としてしまう自分を想像し、ひとりうろたえた。

「よく効く魔除けの呪いをかけておけば、仮に魔族が君を襲ったとしても、傷をつけられることはない。むしろ、魔除けの効果で魔族の方がダメージを受ける。触れたら最後、奴らが従える植物は枯れてしまうだろうな。それに、新たな花の紋をしばらくつけていれば、君を狙うことはなくなる。植物の魔族は自分が敵わないと思った相手には手を出さない。餌の横取りは滅多にやらないんだ」

 呪いが正常に動いているかどうか確かめるために、身体への接触や観察は避けて通れないと柏木は淡々と説明した。

 心臓の音がうるさいくらいに響き、血がどっと流れ出すのがわかった。頬が熱い。思わず俯いてしまったが、柏木の視線を痛いほど感じる。

 こちらは慌てふためいているというのに、仏頂面は崩れることがない。花の呪いに初めて触れられたときの温もりを思い出してしまい、ひとりで混乱しているのが馬鹿みたいだった。相手が冷静な態度をとっていると、こちらも落ち着きを見せなければと意地を張ってしまう。

「ここに来る前に、専門家のところに行くと言っただろう」

 柏木はちらりとアトリエに目を向けた。

「アトリエはこの呪いについてめっぽう詳しくてな。種の調合は彼女に協力してもらう」

「……アトリエさんって植物の専門家なんですか?」

 ずっと黙って佇んでいた彼女がにんまりと笑う。

「正確に言うと、柚希ちゃんのお腹についているものかな」

「え?」

「私は呪いをデザインすることで人々によりよい生活と喜びを提供するのよ。それらが幸福につながると信じているから」

「今の話はあくまで提案だ。君の同意がなければやるつもりはない。俺だってこんなこと好きじゃないからな」

「じゃあどうして……」

 柏木は目をそらした。

「仕事だからだ」

「柏木が嫌なら私に頼んでもらっても問題ないよ。柚希ちゃんが決めてくれれば」

 アトリエは明るい声で付け足した。

「とりあえず作ってくるからそれまでにどうするか決めておいて」

 材料を揃えてくると言い残して部屋の奥にこもってしまったアトリエを見送りながら、大変なことになったと柚希は途方に暮れた。

「……他に魔族に対抗する手段はないんですか?」

「そうだな……。俺が護衛として四六時中そばにいてやれればいいんだが、現実的ではないからな」

 断ってくれてもいいという言い方をしたくせに、対抗策がなければどうしようもないじゃないか。あくまで提案に過ぎないと言っておきながら、ほとんど決定事項であることには違いない。声を荒げはしなかったが、柚希はややむっとした顔つきになった。

 しかし、彼に対する嫌悪感はない。好いているのかと言われると正直わからないが、信頼を感じていることは確かだ。呪いの専門家ということもあり、そばにいてくれるなら安心できる。それに、ずっと醜態を晒していたにもかかわらず、そのことを馬鹿にせず、むしろ親身になって接してくれていた。初めてこの花の模様を見せたとき、肌に触れられても嫌ではなかったことを思い出すと、これから体の接触があったとしても、事務的にやってくれるのであれば、なんとか乗り越えられそうだ。とはいえ、あのときはかなり混乱していたし、そもそも彼が自分に触れたいと思っているのかどうかはわからない。助けてくれるのはありがたいが、過度な身体接触は彼も苦手なようだ。無理をしたまま事を進めるのはお互いにとって苦痛だろう。

「……生き残りの植物の魔族を倒しに行くっていうのはどうでしょう?」

「呪術師はスーパーヒーローじゃないんだぜ。できれば戦闘は避けたい。彼らにも弱点はあるが、ひとの理解が及ばない存在ってのは、それだけで圧倒的な力を持っているものなんだ」

「でも、柏木さん、呪いを解くのが得意なんですよね? アトリエさんが言っていましたよ。依頼によっては得体の知れないものに遭遇するときもあるって。魔族なんてへっちゃらなんでしょう?」

「まさか」

 柏木は吐き捨てるように言った。

「運が良いのか悪いのか、ただ生き残ってしまっただけなんだ」

「でも、柏木さんは友達を助けてくれました。今だって、私のこと助けようとしてくれています。魔族に対抗するだけの強さがあるってことですよね」

「依頼をこなせたのは俺が強かったからじゃない。周りの協力があってこそ成し遂げられたことだ。ひとならざるものと対峙して、恐怖を感じたことは何度もある」

「じゃあ、なんで私に協力してくれたんですか?」

 恐怖心を抑えてまで、人間とは異なる存在に挑んだ彼を動かすものは何なのだろうか。勇敢さは一体どこから湧き上がってくるのだろう。出会ったときは何も感じなかったのに、友人を助けてくれた恩があるせいか、この男のことをもっと知りたいという気持ちが芽生え始めていた。

 けれど、本当にそれだけが理由なのだろうか。恩を感じているのは疑いようのない事実だが、彼の心の中を覗いてみたい、気を許してしまいたいと強く願ってしまうのは、おそらく恩だけがなせる技ではないだろう。

「俺が止めたところで、ひとりでも行っただろ、あの植物園に」

 図星だった。柚希は黙っていたが、彼の顔が呆れているように見える。おそらく、考えていることは伝わっていると思っていいだろう。

「君が囮になると言い出したときに、同僚のことを思い出したよ。君もひとならざるものにやられてしまうんじゃないかと不安になった」

 意を決したように大きく息を吐き、彼は言った。

「半年ほど前に、人探しの仕事が入ったんだ。いなくなったのは依頼人の友人。依頼人が所有する山奥の土地で姿を消したと連絡を受けたんだ。依頼人は一度捜索に出かけたが、そのときに山で奇妙なものを見たそうだ。どうやら人間ではないらしい不可思議なものが住み着いている、自分だけでは対応ができない、力を貸してほしいと話があった。俺はそのときまだ本部にいた。俺以外の三人の呪術師とチームを組んで出発し、依頼人と一緒に山の中を探し回ったんだが……」

 これ以上話したくないとでも言いたげに、柏木は首を振った。記憶を掘り起こすことすら拒絶しているように見えた。

「この世のものじゃない、醜怪な、忌まわしい姿をした生き物がぐったりと倒れた人間を取り囲んで、聞いたことのない言葉をぶつぶつと唱え続けていた。その人間は依頼人の友人だった。依頼人は思わず叫び声を上げてしまったんだ。俺たちの居場所が知られてしまい、あいつらが襲ってきた」

 青ざめた顔を片手で覆い、しばらく口を閉ざしていた。

「俺と依頼人は助かったが、他の呪術師たちは行方不明。事務所に戻り、事の顛末を報告してから再度探しに行ったが、同僚たちは見当たらなかった。それから怪異の噂が広まって、本部にひっきりなしに電話がかかってくるようになった。依頼人が山で起きたことを言いふらしたせいで、勤務先にオカルト雑誌の記者なんかも来たよ。そういった類の来客が続いたこともあって、今の事務所に異動になった。とはいっても、取材依頼の電話がよく鳴るのは、現在でも相変わらずだがな」

 友人の自宅で手に取ったあのオカルト情報誌の記事が頭に浮かんだ。

 友人が柏木の事務所を訪れたのも、あの記事がきっかけだったのだろう。怪異に遭遇した当事者の話を詳しく知りたかったに違いない。自分もこれからその一人として仲間入りすることになるのだと、興奮していたのかもしれない。だから、行くなと言われても植物園へ行ってしまったのだ。

「取材は断り続けているが、何度追っ払っても、あいつらは好き勝手に書き立てる。恐怖との遭遇。異界の生き物。消えた呪術師たちの悲劇……。何が奇跡の生還者だ。皆は俺たちをかばって……」

 想像を絶する怪異。絶望の中を逃げ惑う依頼人と呪術師たち。ひとり、またひとりと消えていく。彼らは最後まで抵抗したのかもしれない。柏木に依頼人を託し、ここから早く逃げるようにと諭した仲間もいるのだろう。自分が囮になるからと。柏木はその説得にすぐには応じようとはしなかった。しかし、全滅するくらいなら依頼人を連れて生き残れと強く訴えかけられたのではないだろうか。柏木は悔やみながらもその場を後にし、残された呪術師はひとならざるものに立ち向かった。死なば諸共と……。

 見知らぬ彼の過去を想像しながら、柚希は恐る恐る尋ねた。

「そんなことがあったのに、呪術師を続けていて挫けそうにならないんですか? 今回の植物の魔族だって、温厚な種族だとしても、やっぱり怖いですよね……」

 花の模様が疼いた気がして、思わず腹に手を添えた。

「……恐怖を克服するのはとても大変なことだ。正直、向き合わなければ楽だと思うこともある。だが、同僚たちに助けられたように、今度は俺が自分のできることをして誰かの力になりたいんだ。命に関わることに限らず、悩みだろうが願いだろうが、支援ができればと思っている」

 柏木は目を細め、じっと柚希を見つめた。

「ひとならざるものを前にすると、俺たちはあまりに無力だ。だが、それは単に終わりを意味しない。俺たちには自分を信じ、困難を乗り越えようと立ち上がる力がある。呪いの知識がなくとも、実際に術を使えなくとも、そういったことは問題にならない。君も俺も、今は呪いに蝕まれているかもしれないが、必ず打ち勝てる」

 ふと、運命共同体だとけしかけたのは自分の方だったと思い出した。断る理由はないも同然だ。言い訳が全く浮かばず、顔が熱くなってしまう。

 柚希は覚悟を決め、しっかりとした声で告げた。

「私、柏木さんに依頼します。一緒に戦ってくれますか?」

 

 柏木の事務所に戻ってすぐに火種を飲んだ。

 ソファーにぐったりと横たわり、柚希は腹の奥で轟々と燃える炎を感じていた。じっとしていても汗が背を伝う。風邪を引いたときのように息苦しく、体が熱っぽい。体の火照りに耐えきれず、スカートは脱いでしまった。

 悪夢の中にいるような気さえするが、これは現実だ。時折、腹に張りついた呪いが、まるで炎への怒りを表すかのように暴れ出す。ぞっとするような刺激を無視しようとしても、引きずり込まれそうになる。どんなことにも立ち向かうと覚悟を決めていたとはいえ、予期せぬ疼きに遭遇してしまうと途端に動揺してしまう。

 きっと、呪いが消滅したならば、苦しみから解放され、気分は落ち着くだろう。だが、その後のことは? 柏木は新たな呪いをつけると言っていた。種を飲み込み、呪文を唱えたらそれで終わりなのだろうか。こんなことがいつまで続くのかと、視界が滲んでぼやけていく。

 薬を飲んで数十分が経過して、ようやく呪いが薄くなり始めた。

 柚希は弱々しい視線を柏木に向けた。

「熱い……」

「そりゃそうだ。内側から燃やしているんだからな。それに、この植物の紋は強力な呪いだ。消えないように敵も必死に抵抗している。君にとっては余計につらいだろうな」

 無理をさせてすまないと、柏木は沈んだ声で言った。

「こ、これくらいなんてことないです!」

 がばりと上体を起こし、慌てて明るく取り繕った。彼の落ち込んだ声を聞くと、不思議と悲しくなってしまう。

「本当か?」

「本当です! 乗り越えてみせますから! それに、協力して立ち向かおうって決めたじゃないですか。一致団結ですよ。ほら、私たちは運命共同体です! 死なば諸共ってやつです!」

 柏木が呆れたようにため息をつき、ソファーへと腰かけた。柚希の背中にそっと触れ、労りを含ませてさすった。

「生き残るためにやるんだろう」

 背を駆け上がる甘い痺れが絶え間なく体を蝕んだ。もっと触ってほしい。服の上からではなく、直接触って、安心感を与えてほしい。

 素直にそう伝えたら彼はどんな反応をするのだろう。驚くだろうか? それとも示すのは嫌悪だろうか。自分はただの依頼人なのに、心の中をさらけ出してみたいと思ってしまう。そう願ってしまう自分を浅ましく思う。助けてもらったからとはいえ、単純すぎはしないか。自分の心を覗けば覗くほどわけがわからなくなる。

 花の紋が燃え尽きてから数分後、柏木は麻袋の中から緑色の種と液体の入った小瓶を取り出した。アトリエの作った呪いの種は丸いといえば丸いが、所々にくぼみがありいびつだ。柚希は液体とともに口の中へ放り込こみ、噛み砕かないよう注意しながら飲み込んだ。粘り気のある甘い液体の味は、ある記憶を思い出させた。

「うえっ、これ、植物の魔族の……」

「ああ、そうだな。あいつらが呪いを植えつけるときに使う液体を再現したものだ」

 彼は瓶をじっと見つめた。

「魔族が持っているあの液体は、花の持つ力を増幅するための栄養剤みたいなものでな。花をより丈夫に美しく育てるには欠かせないそうだ」

「花の持つ力って……」

「魔族の花にはひとを惑わす力がある。花を体内に入れることで、内側から獲物を支配するんだ」

「私が飲み込んだ種子にも効果はあるんですか?」

「ああ。よく効くぞ」

「これを飲むと呪いの効果が増すってことですか?」

「そうだな。すぐ体に馴染むようになるし、快楽を拾いやすくなる。植物の魔族は餌を取られたともう勘づいている。早く済ませた方がいいだろう」

 柏木は飄々とした様子で言った。

 ただでさえ普段よりも過敏になっているのに、また快楽を刻み込まれるのか? ぽかんと開けていた口が、わなわなと震え出した。

「私だけ正気を失うなんて嫌ですよ! 一緒にわけがわからなくなってください!」

 かすかに見開いた目は驚きの色を浮かべていたが、すぐに落ち着きを取り戻した。

「……俺も飲むけどな」

「へ……?」

 柏木は先ほど柚希が飲んだ緑色と同じ瓶をもう一つ取り出して見せた。

「俺もこれを飲んで自分自身に呪いをかける」

「ど、どうしてそんなことを……?」

「君にかけた呪いはある程度の快楽を与えないと効果を発揮しない。初めは蕾の模様が浮き出るんだが、花が開かないと魔除けの効果が完全には出ないんだ」

 柚希は勢いよく背を向けて、自分の腹に浮き出た呪いをちらりと見た。彼の言う通り、赤い色の小さな蕾が下腹部に広がっていたが、ほころぶ気配はない。

 すっかり言うのを忘れていたと、柏木はがしがしと髪をかいた。説明を失念してしまうほど、彼もこの依頼に動揺していたのだろうか。

「だから、君と同じような呪いを自分にかけることで、君との結びつきを強め、呪いがさらに早く発動するよう働きかけをするんだ」

「ちょっと待ってください。柏木さんが呪いをかける、つまり、魔族の立場なら、私が柏木さんの命令に従いやすくなったりするってことですか?」

「そうなるな。だが、俺は植物の魔族じゃない。勝手に呪いを使って君をどうにかしようなんてことは考えていない」

「わ、わかっています」

 柏木の顔がまともに見られず、俯いた。

「呪いの成長を早めるためには、多くの快楽が必要となる。効率を考えれば、俺の分も分けられた方がいいだろう」

「は? 分けるって?」

「魔族は君の友人を餌として栄養源にしていただろう。呪いをかけた相手から奪えるように、その逆のことだって可能なんだ。君が望めばいくらでも与えることができる。感覚を増幅させることも共有も可能だ」

「そんなことしたら、し、死んじゃいますよ……!」

 柏木は落ち着いた声で言った。

「死なば諸共じゃなかったのか?」

「た、確かに言いましたけど……!」

 柚希が止める間もなく、柏木は種と液体を口に含んでしまった。液体の甘さに顔をしかめていたが、すぐに喉が上下し、体内に送り込まれたのがわかった。

「待ってください! まだ飲み込んでいいって言ってない!」

「敵はすぐそばにいる」

 突然、窓が大きな音を立てて震え出した。ガラスを割らんばかりの勢いで強く手を打ちつけているような音が部屋中に響く。鳥がぶつかったにしては妙だった。地震でもない。しかも、ここは二階だ。ベランダは設置されておらず、外から人間が叩いている可能性はほとんどない。しかし、確実に誰かがいる。普通の人間ではないものの気配。

「柏木さん……! ま、窓……!」

 嫌な予感は的中するものだ。カーテンの隙間から、窓がびっしりと蔦に覆われているのを見てしまい、恐怖で気絶しそうになった。

 柏木はゆっくりと立ち上がり、窓へと近寄った。カーテンの隙間に顔を突っ込み、外の様子を伺ってから、悪態をつくように聞き慣れない言葉を唱え始めた。それは異国の言葉のような響きを持っていた。呪文だろうか? やがて、騒音は次第に弱まり、よどみなく紡がれていた言葉が止まると、何の音も聞こえなくなった。

 再びソファーに戻ってきた柏木にしがみつき、窓の方を指差して、状況を説明してくれとせがんだ。

「餌を横取りされたと怒っていたな」

「もう大丈夫なんですか……?」

「ああ、ちゃんと対策はしてある。この事務所には入って来られないから安心してくれ。……それより、君の呪いを早く咲かせないとな。それが一番の対策になる」

「あ、あんなことがあった後なのにやるんですか!」

「当たり前だろう」

 君がそう依頼したんじゃないかと、柏木は静かに言った。

「む、無理ですよ……!」

 先ほどの恐怖体験により熱はすっかり冷め切ってしまった。花が咲いていないとはいえ、餌としての目印は取り除かれ、お守り代わりの呪いはすでにかけられている状態にある。体と意思を取り戻すことができたわけだ。しかも、窓を叩いていた植物の魔族がおとなしくなったということは、横取りの意思はないと考えてもいいのではないだろうか。もう醜態を晒すのはごめんだ。触ってほしいと思ってしまった自分がいるなんて恐ろしい。どうかしていた。他に何かいい方法はないかと、説得しようと心に決めたところだった。

 しかし、柚希は開きかけた口を閉じた。辺りに花のいい香りが漂っていることに気づき、文句よりも甘く重々しい香気に意識が向き、すんすんと鼻を鳴らす。お香かと思ったが、焚いている様子は見られない。

「いい匂いがする……」

 腕にしがみついたまま、だらりと体重を預けた。密着すればするほど、花の甘い匂いが強くなった。

「柏木さん、なにこれ、なんか変ですよ、においが……」

 柏木は額にびっしょりと汗をかいている。苦しげな表情をして、匂いから自分を守るように、鼻と口を覆った。

「きついな……」

「確かにすごい匂いですけど、何かしたんですか? また呪い……? なんだか、思うように力が入らない……」

「種を飲み込んだから、呪いがかかったんだ。この匂いは呪いが機能している証拠だ」

「確か、植物の魔族は餌の目印として香りづけをするんですよね?」

「ああ、この呪いは人間用に作られたものだから、目印というよりも……」

 ちょっと考えるようにしてから、柏木は顔を近づけてきた。

「魔族につけられたものとは別の匂いがするな……」

 目の奥に冷静さは残っているものの、表情はどことなくうつろだった。

 どうやら柏木もこの呪いに相当やられているのは確かなようだった。

 柚希は思い切って自分の好奇心を打ち明けた。

「柏木さん、あの、見てもいいですか……?」

「何を?」

「呪いです。柏木さんは私の花の紋を見ているじゃないですか。私だって見てみたいんです」

「本当に見るだけか?」

「そのことなんですが、実は、提案がありまして……」

「……なんだ」

「私たちって今感覚の共有ができるんですよね? だったら、早くこの呪いを機能させるためには、より多くの快楽が必要ってことだから、私が柏木さんについている模様を触れば、その分の快楽をおすそ分けしてもらえると思ったんですけど……」

 柚希は視線を外した。

「触られるのは嫌かもしれないけど……」

 柏木は眉間のしわを深くしたが、拒絶を見せず、唇を噛んで、考え込むように目を伏せてしまった。予想外の反応に、柚希は面食らった。馬鹿なことを言うなと叱られると思っていたが、そんな言葉は出てこない。どうして答えを言い淀む必要があるのだろう。

 しばらくしてから、しぶしぶといった様子で、柚希に視線を戻した。

「少しだけならな……」

 上着を脱いでくれと頼むと鬼のような形相で睨まれたが、言う通りにしてくれた。腹に模様はなかったが、確かに匂いは強く漂っている。

「あれ、私と同じ場所にはないんですね……?」

「君のことだ。もし見つけたらすぐに触ってくるんじゃないかと思って別の場所に出現させた」

「ひとの許可なく触りませんよ!」

「そうだろうな。だが、好奇心が旺盛な方だと思って、念には念を」

 随分信用がないんだなと愚痴をこぼしたくなったが、あながち間違ってはいない。言い返すこともできず、黙って肩をすくめた。

「……前にないってことは後ろですね」

 背中をこちらに向けるよう頼み、断りを入れてから背中に垂れていた髪の束をすくいあげた。

「うわっ、すごいことになってますよ」

 目に飛び込んできたのはびっしりと背中を埋め尽くしている植物の呪いだった。全体が赤っぽく色づいているためか、まるで炎を背負っているように見えた。

「……柏木さんの背中にあるこれも、私が植物の魔族に襲われる心配がなくなるまでそのままってことですよね?」

「ああ、一週間は様子を見るつもりだ」

 この呪いと七日間も付き合うのかと思うと、鬱々とした気分になった。

「魔除けの効果があるって言ってましたけど、何ヶ月も持続するものなんですか?」

「いいや、そんなに長くは使えない。今回は一週間と設定してあるが、それ以降は効果も弱まってしまう。延長させる場合には、また呪いをかけ直さなきゃならない」

「へえ……」

「呪いの効果が失われるにつれて、模様も薄くなるんだ」

 恐る恐る肌に触ると、柏木が低く呻いた。

 赤々と燃える呪いが火傷に見え、初めは傷を労るように背を撫でていたが、彼の呪いに触れば触るほど、下腹部が重くなる感覚が広がった。柏木が初めて呪いに触れたあのときの感覚が二倍にも三倍にも膨れ上がって跳ね返ってきて、耐えきれずに指先に力を込めてしまう。ほとんど引っ掻くように肌に食い込ませると、柏木が荒い息を吐いた。

「ご、ごめんなさい。痛かったですよね……」

 ぐったりとしている柏木に柚希は困惑した。 

「もう十分だろう……」

「まだです!」

 反抗心を込めて背中を叩くと思ったより大きな音が出た。

 柏木はじろりとこちらを振り向いた。目つきは相変わらず鋭いが、弱り切って余裕のない顔をしている。

「頼むからいたずらだけはしないでくれよ……」

 体を密着させると、なんとも言えない柔らかい香りが鼻先をくすぐった。深い呼吸をすると、不思議と喉が渇く。部屋の空気は穏やかな匂いで満ち、次第に重く濃くなった。

 吸い込むだけでは物足りなくなり、柚希は背中に唇を寄せた。そっと模様を舌先でなめると、口の中に甘い蜜の味が広がった。甘みのある熱はとろとろと喉から腹の底へと流れ、火が全身にかっとついたようになった。

「おい!」

 声に驚いて背中から口を離したが、瞼が下がり、まともに目を開いていられない。アルコール度数の高い甘い酒を飲み続けているような気分になったが、酔いが回るのを楽しむ余裕もなく、体はどんどん重くなった。喉や腹の奥が焼けたように熱く、息が苦しい。

 もうダメかもしれない。そう思った瞬間、ぐらりと傾いた体を柏木が抱きとめた。むせかえるような花の匂いで満たされる。離れなければと思うのに、ずっとこのままでいたいと思ってしまう。

 柚希が恐る恐る自身のへその方に目を向けると、新たな呪いの蕾はほとんど開いており、華やかで可愛らしい花々が肌の上に散りばめられていた。

 柏木は文句を言いたそうにしていたが、柚希の呼吸が落ち着くまで辛抱強く待った。

「あ、だ、だめ、今は駄目です、離れてください……」

「なんだって?」

「ごめんなさい、違うんです、に、においが……。甘くて、おいしそうだって思って……」

「目を離すとこれだからな……」

「うう、やだ、柏木さん、助けて……」

 体に力が入らずしばらく寄りかかっていると、不意に名前を呼ばれ、どさりと横倒しにされた。

「もう少し頑張れるか?」

 彼は腹に指を這わせ、花の輪郭を愛おしむようにそっとなぞった。その指先から、燃え上がるような熱が生まれる。

 身をよじり、痙攣させながらも、必死に声を抑えた。だが、押し留めようとしても、涙は次々に流れ出ていった。

「む、無理かも……」

「少し休むか?」

「で、でも、これ以上長引くとお互いつらいですよね……」

「気にする必要はない。どれだけ時間がかかったとしても、依頼が無事に終わって、君の安全が確保されればそれでいいんだからな」

 柏木は柚希の濡れた目元を指先で拭った。

「それとも、依頼を撤回したくなったか?」

 耳に届いた言葉に柚希は目を見開いた。どうして急にそんなのことを聞くのだろう。一緒に立ち向かおうとあれほど言ったのに。詰めていた息をゆっくりと吐き出し、彼の様子をうかがう。口を結び、痛みを堪えているかのような顔をして、いくらか困惑を浮かべていた。

 柚希は彼の手を取って、そっと引き寄せ、胸へとあてがった。ただ触れているだけなのに、火傷したように熱い。鼓動の音がうるさかった。

「そんなことないです。なんとかなる、乗り越えられるって、自分を信じていますから。だから、柏木さんも、最後まで協力してください」

 早く、とねだる。もっと触れてほしい。

 ずっと口にできなかった願望を告白すると、彼の手が腹の方にゆっくりと下がっていった。

 

 たった一週間だ。呪いが花開いたとき、冷静さを取り戻そうと何度も言い聞かせた言葉だったが、柚希の予想とは裏腹に、事務所のドアを出れば終わりはすでにそこまで来ていた。

 目に飛び込んだ大量の枯葉に、柚希は心臓が止まりそうになった。出入り口だけでなく、階段までも埋め尽くす色あせた葉をぞっとしながらも見下ろすと、山積みになった枯葉の中に、しおれた花びらが混じっていることに気がついた。それらには見覚えがあった。植物の魔族に食べさせられた花だった。

 呪いが効いたのか、その後植物の魔族に狙われることはなくなった。予定通りに友人と映画を観に行き、別の日にはアトリエとおいしい菓子をつまんだ。

 一週間が過ぎ、二週間が経とうとしていた。梅の花は散り、桜の蕾が膨らんで春が頭上を覆い始めた。呪いの花は色を失いつつあり、ほとんどかすれてしまっていた。友人探しの依頼料もすでに振り込んでおり、腹に根づいた呪いとの共存もあっけなく終わりを迎えるかと思われた。

 だが、柚希は丁寧に記憶を辿って、彼に触れられたときの感覚や甘い匂いを思い起こしながら、また呪いをかけてもらうにはどうすればいいのだろうとぼんやり考えるようになっていた。浅ましい考えを持つ自分に気がつくと、駄目だと強く言い聞かせるのだが、禁じれば禁じるほど、事務所に足を向けることばかりを想像した。

 自分はどうかしてしまった。効果が薄れつつあるとはいえ、きっと呪いのせいだ。どうにかしてもらわなければ。でも、消えてしまうのは惜しい。そんなことを考えてはいけないはずなのに。また触ってほしい。

 まとまらない思考を携えて、春風に吹き送られながら、恐る恐る柏木の元を目指した。

 ノックをしてからドアを開けると、涼しげなベルの音が鳴った。

「こんにちは」と柚希は声をかけた。

 ややあって、柏木が現れた。相変わらず笑顔がない。まっすぐに柚希を見つめるばかりだ。彼が何を考えているのか見当がつかなかったが、追い返そうという様子は見られなかった。

「依頼か」と柏木は短く言った。

 柚希は頷いた。

「呪いが薄くなってしまったんです」

 また魔族に襲われたら心配だ、怪異はすぐそばにあるかもしれない、念のため、もう少しだけと頭の中では言い訳を並び立てていたものの、彼を目の前にすると言葉が出てこなかった。

 しばらくして、顔色ひとつ変えず、仏頂面のまま、抑揚のない声で柏木が言った。

「皆様のお悩みを解決します。開運、縁結び、厄払いなど呪いでサポート。安心・安全・秘密厳守。相談・見積もり無料です。呪いの代行承ります」

 予想外の言葉に、柚希はぽかんとして彼の顔をいつまでも眺めていた。

「うちの会社の宣伝文句だ。俺が考えたんじゃないぞ。……まあ、そんなことはどうでもいい。柚希さん、君は今困っているんだろう」

「は、はい。困っています」

「悩みがあってそれを解決しに来たんじゃないのか」

「そうですけど……」

「依頼なんだろう」

 逃げ道を示しながらも、じわじわと囲い込むような囁きだった。

 柚希は深く頷き、息苦しさをこらえながら言った。

「もう大丈夫だってわかっているのに、少しだけでも許されるなら、また呪いをお願いしたくて……。こんなこと頼んじゃ駄目だって何度も考えたのに、でも、それでも、柏木さんに依頼をしたくて……」

 わずかな沈黙の後、「わかった」と柏木は言った。

 これは依頼だ。依頼だから受けたに過ぎない。依頼者が困りごとを抱えてやってきたのだから、頼みを聞くのは彼にとって当然のことなのだろう。柚希は自分にそう言い聞かせたが、どうして断らなかったのかと尋ねたくなった。拒否する権利もあるはずなのに、どうして。

  疑問を投げかけようとすると、甘い香りがそっと近づいた。

 引き寄せられて、頬が胸にあたった。身動きも取れなくなるほどの強い力で抱き込まれる。困りごとがあってすがったのはこちらであるはずなのに、まるで彼の方がしがみついているかのようだった。