悪霊

 自分は悪霊なのだろうか。

 右手に残る人間の温もりに居心地を悪くしながら、あてもなく鬱蒼とした森を歩き続ける。ここは一度迷い込んでしまうと出られないと都市伝説化している場所だが、彷徨う目的で訪れるのにはちょうどいい。噂通り、森に入ってからもう何日経っているのかわからない。生きている人間には遭遇しない。いや、どこかにいるのかもしれないが、広すぎるために出会わないだけだろうか? 私は再びつぐを思い出し、右手で顔を覆った。歩みを止め、指の隙間から前を見据える。荒々しい波を想起させるねじれ曲がった樹木が至るところに存在し、暗い緑の海を形成している。頭上は曇天だった。森も空も薄暗い。雨が降り出すかもしれない。

「つぐさん……」

 嫌な予感がする。彼女のもとを離れてどれほどの時間が経ってしまったのか把握できないが、彼女のことだ、心霊スポット巡りを再開しているかもしれない。とびきりの憎悪を抱えているらしい幽霊を観察して、お化けの狂気を学びたいと熱心だった彼女を止める術は何もないのだ。

 体が透けているよりも、はっきりと目に見えてしまう幽霊の方が「ヤバい」。その共通認識が生まれたのはいつ頃であるかはわからないが、オカルト好きな人間でなくとも知られている「事実」である。要するに、悲惨な目にあったとか、どうしても晴らしたい恨みがあるとか、各々の事情は異なるが、生きているように見えてしまう幽霊は生者に災いをもたらすと言われている。実体のある幽霊は一般的に忌み嫌われているし、関わってしまったらほとんど手遅れだ。むやみに近づかないことが重要で、恨みや呪いに巻き込まれたくなければ逃げるしかないが、逃げられるかどうかは運次第だ。

 しかし、そんな存在に人一倍興味を持っていたのがつぐだった。

 鍵沼つぐという名の人間とは心霊スポットで出会った。そこは景気がとんでもなく良い時期に建てられた風俗店で、外観は古風な三階建ての洋館といった具合でなかなか洒落ていたが、高い金をかけて作ったわりに売り上げが伸びず、それに加えて建設直後に世の中は深刻な不況に陥り数年で廃業、その後何年も放っておかれた曰くつきの場所だった。オカルト好きだけでなく廃墟愛好家にも人気が高い。一階は広間になっていて、二階と三階は廊下の左右に個室のドアがずらりと並んでいる。外壁はツタに覆われ、窓ガラスは割られたままになっており、かつて天井高くに輝いていたシャンデリアは埃をかぶって床に打ち上げられている。私は三階のある一室を拠点にしていたが、廃墟にしては妙にきれいな部屋がひとつだけあると心霊スポットを取り上げる配信者や肝試しをする若者たちの話題になってしまい、人間を避けるために廃墟に転がり込んだというのに次はどこへ行けばいいのだろうと頭を悩ませていたところだった。

 どうやら私は生者に見えてしまうらしい。洋館にある割れた鏡で自分の姿を確認したことがあるが、体は透けておらず、影がないことを除けば確かに生きていると勘違いする人もいるだろう。目の下には濃いクマが根づき、顔色が悪く、くたびれたスーツを身につけているためか、洋館の支配人の執念がこの世に留まっているのではないかと噂されているようだが(洋館にやって来た配信者の会話を盗み聞きして得た情報だ。一度だけうっかり撮られてしまったことがあり、おそらくその動画が広まったのだろう)、真相は私にもわからない。

 つぐは私を見て怖がるどころかむしろ喜んでいた。彼女は若手の役者で、受賞経験があるほどの実力者だった。演じる役のほとんどが幽霊で、ホラー映画やその類の舞台にばかり出演している。

「幽霊の狂気は私にとって癒しなんです」とつぐは言う。

「子供の頃、テレビで流れていたホラー映画を偶然見たときにすごく癒されたんです。なりふり構わず人を呪ったり恨みを晴らそうとしたりするところに惹かれたんですよ。私は周りの目を気にしてしまうことがよくあって、演技にも全然集中できなかった頃がありましたが、そんな私を救ってくれたのがホラー映画でした。周囲の人間たちに構うことなく取り乱す幽霊の姿! 諦めの悪さ! 素晴らしいのはそれだけではありません。幽霊たちの姿を見ていると、人の持つ闇を肯定してくれるような気がして……」

 大人しく自己表現に乏しい性格を心配した両親が演劇教室に通わせたのがきっかけで、つぐは演技と出会った。今でこそ人前に出る仕事をしているが、習い始めたばかりの頃は他人の視線が気になってしまい、演じることに抵抗があったそうだ。思うように演じられず落ち込む日々が続いたが、周りの目に構うことなく一心不乱に呪いと不幸を撒き散らすホラー映画の幽霊に感銘を受けて幽霊役を熱心に演じるようになり、本物の狂気を間近で学びたいと成人してからは心霊スポットに足を運ぶようになった。

「あなた、もしかしてすごい幽霊なんですか? お名前は?」

 目を輝かせるつぐに戸惑いながら答えた。

「錠前と言います」

「錠前さん、触って確かめてもいいですか?」

「えっ?」

「こんなにはっきりと幽霊を見たのは初めてです! 霊感があるわけじゃないので、今まで全然会わなかったんですよね。透けてないから触れられるのかと思って……」

「さあ、どうだろうね……」

 断りを入れてからつぐはぺたぺたとスーツに触った。頭一つ分ほど下の方で忙しなく動く姿は役者というより幽霊研究家のようだった。

 やはり自分は悪霊なのだろうか。生前の記憶はほとんどない。おそらく、ろくな死に方をしなかったのだろう。何があったのか思い出したくもないが、幽霊である己の姿が他人にもはっきり見えてしまう現象からするに、私の闇はどこかで息を潜めているに違いない。

「す、すごい……! 触れました!」

「それはよかったね……」

「やっぱりすごい幽霊なんですね、錠前さんって」

「すごくはないと思うけど、どうしてこうなったのか自分でもわからないんだ。記憶がほとんどなくてね」

「確かに、憎悪があるようには見えないです」

 つぐは満足するとすぐに手を離し、明るい声で言った。

「では、私はこれで。次の狂気を探しに行きます!」

「はい?」

「邪魔してしまってすみませんでした」

「いや、え、次の狂気……?」

「ここから比較的近くにある山奥のトンネルに出るらしいって……」

「待つんだ!」

 私は思わず彼女の腕に手を伸ばしていた。強く掴んだせいで痛みを与えてしまったかとぞっとしたが、つぐは私の大声に目を見開いて首を傾げているだけだった。

「心霊スポットと言われる場所は危ないんだ。幽霊がいてもいなくてもね。ここだって廃墟になっているから管理されていないだろ。床が抜けたりして怪我をする可能性がある。それに、本当に幽霊と出会って危険な目にあったら……」

 彼女の行動力と演技に対する熱意は凄まじいものだ。だからこそ、自分が止めなければと直感が働く。頼まれずとも自ら危険に飛び込んでいくのだから、私の予感が外れることはないだろう。

 つぐはいたずらを思いついたような顔をして微笑んだ。

「じゃあ、提案があるんですが……」

「提案?」

「はい。錠前さんを密着取材させてください!」

「何だって……?」

「演技のために幽霊の狂気を学びたいんです。心霊スポット巡りができなくなったらその機会も減ってしまいますが、要は幽霊がそばにいれば良いんです! 錠前さんから憎悪は感じられませんが、何かがきっかけで表に出るかもしれません。人間もいろんな人がいるように幽霊にだっていろいろありますよね、きっと。だから、幽霊のことをよく知る機会になると思います。一緒に来てください。どうですか?」

 断るはずがない。次の住処を得るだけでなく、つぐの危険な行動も止められる。私にとっては十分魅力的な提案だった。

 つぐとの暮らしは居心地が良く、安らぎを見出せる贅沢なものだった。私は悪霊の条件を揃えていたが、恨み辛みを思い出すことなく穏やかな日々を過ごせていたと思う。

 だが、日が経つにつれて、つぐの周りで奇妙な現象が起こるようになった。部屋の照明が突然点滅したり物が勝手に動いたり、空室のはずの上の階から足音が聞こえたりと今までの日常では起こり得なかった出来事が連発した。

 機械の調子が悪いのかもしれない、地震があったのかもしれない、管理人が様子を見に来ていただけではないかとつぐは私に言い聞かせ、心配する必要はないと明るく振る舞っていたが、このままではつぐの友人や同僚、さらには本人にまで悪いことが起こってしまうのではないかと次第に無視ができなくなっていった。原因は私なのだろう。鬱積した怒りや悲しみを無自覚にぶつけ、不幸を招く悪霊はできるだけ早く消えた方が良いに決まっている。

 不可思議な現象が起こるようになってから三ヶ月が過ぎた頃、私はようやく彼女のもとを去る決意をした。遅すぎる決断に自分でもうんざりしたが、なぜかつぐは瞳を濡らして黙り込んでしまった。離れないでほしいと訴えかけているようで、私は思わず視線をそらした。

「待って! 錠前さんのせいだと決まったわけじゃ……!」

「……君の力になれなくてごめん」

 つぐの演技のために役立ちたかったが、怪奇現象を起こしただけで結局何もできなかったと思うと情けない。

 肩を落として玄関へと歩き出すと、強い力でスーツを引っ張られた。

「私のことはいいんです! だから、早まらないで! いい考えがあります!」

「いい考え?」

 腰にしがみついた彼女を無下に扱うこともできず、うろたえながら振り返った。

「私を使って発散してください!」

 私は怪訝な顔をしていたことだろう。意味がわからず、彼女の言葉を待った。

「もし錠前さんの苦しみや憎しみが肥大してしまって悪影響が出ているとしたら、その感情を発散させて規模を小さくすればいいんですよね? 思い出さなくても発散できる方法があるとしたら、演劇です! 憎悪がわからなければ演じればいいんです。演劇はセリフを覚えるだけじゃありません。演じる人物の背景を考え、想像します。どんなひとなんだろう、どうしてあんな行動をするんだろうと思い巡らせるんです。だから、憎悪を演じれば疑似的に発散できるだろうし、自分の中にある感情に目を向けるきっかけになるかもしれません。とにかく、私が相手になるので、私に対してひどいことをしてください!」

「そ、そんなことできない!」

「屈辱的なことでもいいですよ」

「よくないよ!」

 体に回されたつぐの腕を引き剥がそうとしたが、私が抵抗すればするほど彼女も負けじと反抗し、指が古びたスーツに食い込んでより一層しわが刻まれた。

 途方に暮れ、しがみついて離れないつぐをまじまじと見下ろす。

「錠前さんが恨みや憎しみに蓋をしているなら、私にぶつけてください。私は幽霊の狂気が大好きなので、逃げ出しませんから……!」

「い、嫌だ! 本当にひどいことをしてしまったらどうするんだ! 君が怪我でもしたら……」

「じゃあ怪我しない方法ならいいんですね!」

「えっ?」

「確かに暴力や乱暴はよくありません。気持ちの良いことならしてくれますか?」

 つぐは体をそっと離し、私の右腕を恐る恐る掴んだ。右手が彼女の腹へと導かれる。衣服の滑らかな生地の感触が手のひら全体に広がった。

「触られるのが好きなんです」

「そう……。どうすれば良いのかな」

「撫でたりとか……」

「腹を撫でられるのが好きなの?」

 つぐはゆっくりと頷いた。耳がじわじわと赤みを帯びていく。

 巡っていないはずの血が騒ぐ音がする。痛みを覚えないはずの胸が軋む。

 このままでは、固く閉ざされていたはずの扉が開いてしまう。鍵はすでに差し込まれてしまった。私の中で眠っていた積怨が溢れていく。

 ありったけの憎悪を垂れ流したら、私たちはどうなってしまうのだろう。

「錠前さん……」

 不安そうなつぐの視線が私に注がれる。幽霊の狂気は癒しになりうると彼女は言った。もしそれが本当なら、彼女の心をかき乱して私の思いを注ぎ込んでも喜びを得るのだろうか? ああ、期待をしては駄目だ。ひどいことがしたい。駄目だ。地獄をばら撒いては駄目だ。道連れにするなんて、地獄へは一人で向かわなければ……。

「見ないでくれ!」

 全てが恐ろしくなって、私は彼女の手を振り払って逃げ出した。だが、どこへ流れ歩いても衣服越しの体温は右手にまとわりついたままだった。

 

 灰色の空は黒々とした色に変わったが、厚い雲は相変わらず居座ったままだった。

 這うように地を覆う木の根や、至るところにびっしりと生えている苔に足を取られないよう細心の注意を払って闇の中を進む。月がないと不便だ。透けている幽霊は足元に目を向けずに歩くのだろうか。恐る恐る歩くなんて生前の癖が抜けないのかと自嘲したが、笑い飛ばすことのできない胸騒ぎがする。

「まさかな……」

 私はどんどん生きている人間に近づいているのではないだろうか。漠然とした不安がじっとりと背を撫でる。

 つぐは今頃どうしているだろう。心霊スポット巡りを楽しんでいるかもしれない。私以外の幽霊には出会えただろうか。狂気にまみれた幽霊は何をしでかすかわからないが、つぐはその狂気を見たいと言った。彼女は今どこにいる? 私以外の憎悪にさらされていると想像すると、苛立ちが腹の底からじりじりとわき上がる。つぐが傷つくようなことがあればその幽霊を消し去らなければならない。

 呼吸が乱れ、胸を手で押さえつけるが苦しみは止まらない。右手に残る彼女の体温が私を侵食していく。私の狂気でつぐを癒したい。駄目だ、彼女を傷つけるな。つぐ、どこにいるんだ。私の狂気を注いで、もういらないと言うまで満たそう。他の幽霊が与えるものなど許さない許さない許さない許さない許さない……。

 雨粒が頬に当たり、はたと我に返る。手のつけられない悪霊になりつつあるのかと一瞬嫌な考えが頭をよぎるが、仮にそうなったとしても人間に遭遇しなければ問題ないだろう。この森を彷徨い続ければいい話だと自分を納得させるが、なぜか妙に落ち着かない。このまま迷い続け、湿っぽい夜の森に包まれていたいと思うのは本心のはずだ。

 だが、森は突然私を吐き出した。視界を覆っていた木々の先に街灯と道路が現れ、思わず自分の目を疑った。

 街灯の下に立つ。光が数回点滅する。影はない。だが、妙に心は波立っている。ここが見覚えのある場所だからだ。

「どうして……」

 雨脚が強くなり、重く生温い湿気が忍び寄る。

 目の前に現れたのは薄汚れた洋館だった。彷徨っていた森は洋館と離れた場所にある。たどり着けるはずがない。道はつながっていない。幻覚を見せられているのだろうか。一体誰に? 

 恐ろしい予感がぞわぞわと肌を這い上がる。これは幻覚ではない。見せられているのではなく、私が見たかったものを、私自身が見せているのだ。

 洋館の前には見慣れた人間の後ろ姿がある。

「やめてくれ……」

 私は急いで森の中へと駆け出した。もつれそうになる足を必死に動かして、二度と出られないようにと願いながら森の奥へと走ったが、再び洋館の前にたどり着いてしまう。

 大粒の雨が狂ったように地面に叩きつけられる。

「錠前さん!」

 懐中電灯の光が私を照らした。

「つぐさん……」

 私は息を乱しながら彼女の名を呼んだ。

「ここにいたんですね」

 安堵の表情を浮かべたつぐは私に駆け寄った。

「いろんな心霊スポットを探し回っても見つからないので、もしかしたらこの洋館に戻っているのかと思って……」

「私を探していたのか?」

「ええ」

「怪我はしていないかい」

「何も怖い目にはあっていません。錠前さんこそ大丈夫ですか? 一体、二ヶ月もどこに隠れていたんですか?」

 目眩がする。雨に打たれて指先がひどく冷えていたが、捉えようのない煮えたぎった血が体内を蹂躙している。膨れ上がった熱情がこぼれ出そうになり、顔を歪め、涙を浮かべた。

「どうしたんですか? 息を切らして……」

 荒々しい呼吸を抑えようにもうまくいかない。走って息切れしているなんてまるで人間ではないか。体が濡れているのは雨のせいだけではなく、やけにべたつくのは発汗しているからではないのか?

「ずっと森にいたんだ。一度入ったら出られないと言われている場所で彷徨っていた。でも、君のことを考えたら、また心霊スポットに行って幽霊に出会ってしまって、その狂気をぶつけられたらと思うと怖くて、君の無事を願っていたのに、狂気を注ぐのは私だけだと、嫌だ、どうしてここにいるのかわからない。違う、認めたくないんだ……。逃げてもいつの間にかここに……」

「錠前さん……」

「君に私の狂気を与えたら、本当の悪霊になってしまう」

「錠前さん、もうどこにも行かないで……!」

 つぐは性急に私の唇を奪った。背伸びをしてすがりつく彼女に面食らったが、必死に口付けを繰り返す健気な姿に余裕を奪われていく。どろどろとした甘い蜜のようなものが腹の底を熱くする。

 ふらつく体を抱きとめた瞬間、懐中電灯が彼女の手から滑り落ちた。がつりと地面にぶつかり、光は消えてしまった。

「つぐ、んっ、つぐさん……」

 私たちはほとんどしがみつくような格好で、互いを腕の中に閉じ込めた。

 

「悪趣味だな……」

 派手な色で塗りたくられた壁が目に痛い。

 埃まみれで清潔さのかけらもなかった床は上質な絨毯で覆われ、打ち捨てられていたシャンデリアは天井でぎらぎらと輝きその存在感を誇示している。割れていたはずの窓は傷ひとつなく、隙間風を通さない。薄汚れてぼろぼろになっていた壁には異様な柄が連続的に描かれている。拠点にしていた三階の部屋は高級ホテルの一室のようであったが、広間と同様、けばけばしい配色や奇妙な模様で覆われていて胸焼けしそうだ。

 金がかかったと言われるだけあって館内は豪勢だが、品の良さが全く感じられない。

 雨宿りのために朽ち果てた洋館へと足を踏み入れたが、廃墟であったはずの館内は当時の姿を取り戻していた。ほとんど壊れていた玄関扉は新品のように美しく変容していたが、外に出ようとドアノブに手をかけてもびくともしない。仕方なく三階の個室に移動したが、入るや否や大袈裟な音を立てて扉が閉じてしまった。

 鍵はどこにも見当たらない。つぐは肩を震わせ、青ざめた顔で部屋を見渡した。

「この建物もお化けなんですか……」

 ここが異空間と化しているのは彼女も十分理解しているのだろう。

「いや、この洋館が怪異化したのは私のせいだな」

「どういうことですか?」

「底なしの憎しみや恨みは人間だけじゃなく、建物そのものを呪うことだってできるんだよ」

 どれだけ森へ逃げても洋館の前にたどり着いてしまうように、この幻覚も私が生み出したものだろう。雨に濡れる彼女を腕に抱きながら、二人きりになれる場所に閉じ込めて、すぐにでも私の狂気を与えてやりたいと思ってしまったことをひどく後悔した。

「つまり、この現象は錠前さんが引き起こしているんですか?」

「多分ね。まさかこんなことになるなんて……」

 先ほどまでの怯えを消し去り、つぐはぱっと顔を輝かせた。

「すごいです! やっぱり素晴らしい狂気を持っているんですね……!」

 褒められたものではないだろう。嬉しそうな顔をするつぐに複雑な気持ちを抱きながらも、幽霊の狂気が大好きだと宣言していた彼女の言葉に嘘はないのだと安堵する。

「自分がどうして得体の知れない憎悪を抱いているのか、今でもわからないんだ。ただ、つぐさんと離れた後、他の幽霊が君の前に現れて狂気を与えてしまったらと想像すると、なんだか落ち着かなくて……」

 恐る恐るつぐの方を見ると、傷を労わるような仕草で抱き寄せられた。そっと背を撫でられ、私はあからさまに動揺した。

「聞かせてください」

 つぐは明るい口調で囁く。優しげな声が私の闇をくすぐった。

「私の狂気が君の癒しになれば良いと思った。傷つけてしまうのが怖いのに、嫌というほど狂気を注ぎ込みたくなってしまうんだ」

「傷つきませんよ。私は錠前さんの狂気が知りたい。教えてください、私を使って」

「つぐさん……」

 声を震わせて彼女の名を呼ぶ。強烈な期待に喉が渇く。ぐずぐずとくすぶらせていた熱をつぐは見透かしている。

「もっと見せて……」

 屋根を強く叩く音に気づき、雨が降り続いていることを知る。夜明けはまだ遠いのだろうか。一時間以上経ったのか、三分ほどしか経過していないのか、空間だけでなく時間の感覚も曖昧になりつつある。

「どうしたの、錠前さん。不思議そうな顔をして……」

「いや、雨が……」

「雨?」

 ベッドに横たわるつぐを見下ろす。服は着込んだままで目立った崩れはないが、髪は乱れて汗ばんだ肌に張り付いている。上気した頬は生々しく、あるはずのない空腹感を刺激する。

 ゆっくりと髪を撫でると、つぐの体からくたりと力が抜ける。気をつけないとぐしゃりと潰してしまいそうだ。

「いつになったら出られるのかと思ったんだ。よくわからない場所に君をいつまでも閉じ込めておくなんて……」

「私のことは気にしないでください」

 つぐはそっと笑った。

 十分に狂気を注いだと思い込みたいのに、満足していないだろうと突きつけられる笑みだった。優しく澄んだ目をしているのに、際限のない毒を与えられているかのような錯覚を覚える。その毒は甘ったるい霧のようで掴みどころがないが、体の至るところに染み込み神経を妖しく撫でて私を飲み込んでいくのだ。

「たくさん狂気を味わえるなんて、とても嬉しいです」

「嬉しい?」

「だって、錠前さんの狂気を教えてもらえるなんて素晴らしいことですよ」

「そんなはずは……」

 反論しようとする前に、つぐは私をぐいと引き寄せ唇を塞いだ。噛みつくように何度も口付けられてびくりと体が震える。

 悪霊を甘やかして一体どうするつもりなのだろう。

 緩く開いた唇の隙間へつぐは舌を押し込んだ。彼女の唾液が熟れた果実のように甘く感じる。舌を押しつけられ、絡めとられて逃げ場がなく、私はされるがままだった。柔く舌を噛まれると言い返す言葉も溶けてしまう。

「つぐさ、んっ……」

 私はうろたえながらつぐを見返す。

「信じられませんか?」

「い、いや……」

 嘘をついていないとわかるからこそ、たちが悪いのだ。

「この洋館に閉じ込められた原因が錠前さん自身だとしたら、ここから出るには抱えている狂気を薄める必要があるってことですよね」

「まあ……」

「錠前さんなら私に怪我をさせずにひどいことができますよね」

 私は黙ってつぐの言葉を待った。更なる狂気をせがむ姿に目が眩みそうだ。

「ねえ、錠前さん。私にひどいことをしてください。そうしたら、たくさん褒めてあげます」

 つぐは私の手を掴んで、自分の腹に近づけた。彼女と離れてからも忘れることのできなかった体温が再び手にまとわりついて、私はたまらず上擦った声を出した。

「熱いですね、錠前さんの手……」

 悪霊であるからこそ得られる己の偽物の体温が、あの世を想起させる冷たさを与えず彼女を喜ばせている現実に心底恐ろしくなる。

「触って、錠前さん」

 私は彼女の腹の上に手を置いた。

 そっと撫でると、つぐはびくりと肩を震わせる。ゆったりとした動きであるのに、息が荒くなるのを止められないようだ。幼子を寝かしつけるように優しく触れているはずが、彼女を追い詰めている。

 芽吹いた狂気と恐怖に翻弄され、私の手は微かに震え出した。

 気が変になりそうだった。ここから解放される方法は他にもあるのではないか。喜ぶつぐをこれ以上見てしまったら、狂気を頑なに拒んでいた自分には戻れなくなってしまう。

 すると、戸惑いを見せる私を引き止めるように、柔らかな指先にそっと力が込められた。

 繊細で、従わせるほどの強い力はない。だが、決して離すまいと粘りつく糸に捕らえられてしまったかのように、とうとう私は彼女の手を振り解けなかった。

「もうどこにも行かないで……」

 涙まじりの祈りがこびりつき、雨の音など耳に届かなかった。

 

 体を揺さぶられる感覚に驚いて目を覚ます。

「つぐさん……?」

 地震かと思ったが、私を揺らしていたのは大地ではなくつぐだった。名を呼ばれた本人は安堵のため息をつき、ぱっと顔を明るくする。

「もう目を覚まさないかと思いました……!」

 私は呆然と辺りを見回した。

 強烈な色味の壁は褪せて薄汚く、描かれていたはずの模様もほとんどかすれて消えかかっている。清潔なシーツも失われ、部屋の至るところに蜘蛛の巣が張り巡らされていた。個室のドアは開いており、隙間から廊下の様子がわずかにうかがえる。

 屋根を叩く雨音も失われたようだ。

「……早く出よう」

 私はつぐの手を借りてゆっくりと立ち上がったが、彼女の肌の柔らかさに驚愕し、ぱっと手を離した。

「ど、どうして……」

 廃墟やつぐを巻き込んで夜通し狂気を晒したというのに、体は透けなかった。

 せめて半透明くらいにはなっていてもいいだろう。困惑の視線を手に向けながら、引き続き悪霊でいなければならない自分自身に舌打ちした。

 苦々しい顔をした私の心を読み取ったのか、つぐは軽い口調で言った。

「人の狂気なんてそう簡単になくなりませんよ」

「なっ……」

「狂気を薄めるとは言いましたが、消すとは言っていません」

「確かにそうだけど……」

 納得できずに黙り込む。つぐは私を眺めながら微笑んでいる。

 階段を降りて一階の広間に向かうと、壁や割れた窓、砂埃で汚れた床と使い物にならないシャンデリアがじっと息を潜めていた。夜の闇は気づかぬうちに取り払われているが、洋館は有名心霊スポットにふさわしい廃墟らしさを取り戻し、次の客を待ち構えているように見えた。

 手を引かれながら外に出ると、昨夜の豪雨が嘘のような晴天だった。

 伸びきった雑草に水滴がついてつやつやと光り、朝日が注がれていることを知る。

 昨晩の出来事はもしかすると夢だったのではないか。光が悪夢を洗い流してくれたのだと思い込みたくなったが、湿った地面に転がっているつぐの懐中電灯が目に入り、何もかも現実だったと認めざるを得なくなった。

「帰りましょう、錠前さん」

「そうだね……」

 日差しを浴びたつぐは生き生きとした顔をしている。狂気に包まれて安らぎを得る彼女を妙に恐ろしく思い、私は俯いて視線を外した。

「あっ」とつぐは声を上げた。

「ちょっと待ってください。少し屈んでくれませんか」

「どうしたの?」

 つぐの指がそっと私の頭を撫でた。労りと優しさが込められた手だった。

「よくできました」

 彼女の囁きに体がかっと熱くなる。慈愛に満ちた指先が髪をかき分けてゆったりと動く度に、どうしようもない息苦しさを覚えた。柔らかな指先はどこまでも優しいのに、地獄へ誘われていると錯覚してしまうのはなぜなのだろう。

「たくさん褒めてあげるって約束したのに、遅くなってごめんなさい」

 私が何も言えずにいると、つぐは楽しげに笑った。

「また怪奇現象が起こっても、たくさん協力しますからね」

 また? 私は尋ね返したくなったが、ぐっと唾を飲み込んだ。

 もうどこにも行かないでと彼女は言った。私の狂気に満たされる日を心待ちにしているのだから、何も気に病む必要はない。「次なんてあるわけがない」と、どうしてつっぱねることができようか。

 そう強く言い聞かせても、嫌な予感が拭えない。

 ふと自分の心に視線を向けると、身を潜めていたはずの闇がじっと顔を覗かせて私を見つめていた。