後は野となれヤクとなれ

 ※性的な被害の描写を含むのでご注意ください。

 

 今日は厄日だなと呟くと、助手席で眠っていたはずのヤクが嬉しそうに俺を見上げていた。

「違うよ、ヤク。厄日はヤクの日って意味じゃない」

 俺はエンジンを止めて助手席に向かって話しかけたが、理解しているのかそうでないのか判断がつかない。ヤクは体を揺らして俺の脚に額を擦りつける。車から降りて歩き回りたいのだろう。フロントガラスから見える空は雲ひとつなく青く冴え渡っている。催促するヤクの水色の毛と角に結ばれたリボンがふわふわと揺れた。

 先週は台風が接近し、上陸はしないまでも天気は不安定だった。居住地に流れる大きな川は水量が増え、普段の濁り水が一層どろどろと流れていた。それから一週間が経ち、空はすっかり青い。夏が過ぎ朝晩の気温は低くなったが、今日は汗ばむくらいの陽気だ。

 迂闊だったな。こんなめでたい日に厄日という言葉を使ってしまうなんて、俺はなんて嫌な人間なんだろう。ヤクとの会話を他の招待客に聞かれてはいないだろうか……。シートに背を預けたまま駐車場を見渡す。見慣れた車が何台か停めてあったが、まだ全員は集まっていないだろう。安堵のため息をつき、渋々車から降りてヤクを地上へと放った。

 縫針江西(ぬいばりえにし)と書かれたカードがテーブルに置かれている。よくよく考えると、俺は今日の主役である同僚に名前で呼ばれたことはなかったなと思い返す。いや、考えずともわかったはずだ。休日に二人きりで出かけたこともなかった。年が近くて話が合って、おまけに元世界征服組織の一員で、共通点はいくつか見つけられたけれども、ただそれだけだ。どうして舞い上がっちゃったんだろうな。出来るだけ笑顔でいる。興味がありそうな顔つきをする。カメラを向ける。チャペルで俺がやったこと。披露宴でもそうしなければならない。会場のあちこちにカメラが設置されているのが見えるか? チャペルにもあったよな。当日の様子を撮影しておいて、編集して最後に流す、ええと、エンドロールムービー? ふてくされた自分の顔が写ったら嫌だと怯えている。悪事を働いているみたいだ。悪事ってなんだ。世界征服? 世界征服を企んだことはない? 君はどうだ。

 白いタキシードを着た二人が披露宴会場にやって来た。ムービーが流れて音楽に合わせての登場。会場が拍手に包まれる。こういう演出は好きだ。ヒーローっぽいな。ぽいってなんだ。ここにいる人のほとんどはヒーローなのに。俺自身もそうだ。まあ身体能力は高くはないんだけども。

 俺は素直に手を叩く。ヤクは足元に大人しく座っている。

 メインテーブルに座っている純白の二人とは同じ職場に勤めているから顔を知っているし、なんなら飲みに何回も行った。俺は酒を飲まないがそういう場には出ている。特別好きってわけでもないのだが、付き合いが悪いと世界征服を企んでいるんじゃないかと思われそうで、職場からの信用を失うかもしれないと怖かった。

 近年、ヒーロー組織が世界征服組織からの中途採用を受け入れ始めた影響で、俺はなんとか今の会社に滑り込んだ。人口五万人以下の自治体にあるこの会社でも同様の流れがあり、これ幸いと生活のためにしがみついたのだ。世界征服組織、つまり悪の組織と一般に言われているそれに関わっているのは何も自ら望んだ者だけでなく、巻き込まれてしまった一般人も多い。俺は後者だった。この中途採用は救済策であり、悪をより知るためのヒーロー側の戦略でもあった。

 新卒で勤めた会社はヒーロー組織を支援する業務を担うところではあったのだが、それは表向きの姿で、実際には社長が悪の組織に手を貸しており、俺は意図せず悪の組織の一員となっていた。転職の際に、悪意はなかったと判断されて晴れて入社となった。同じタイミングで入社した同僚の一人が新郎である。彼も所謂「悪意のない」人間だった。地元で就職口を探していたがそもそも雇用が少なく苦労したと聞いている。最終的に辿り着いたのがこのヒーロー組織だった。新入社員の募集は毎年行われ、一般的には安定した職業だと言われているが、悪の組織と戦っていて安定もクソもあるかよ。とはいえ、戦隊ものと呼ばれるテレビドラマのように「悪」と直接戦う部署に配属されるのは資格や訓練が不可欠であるから稀だし、ほとんどの職員は事務や広報などに携わっているからそのような言われ方をするのだろう。だが、裏方だからといって責任が少ないわけではないし、危険な目に遭わないわけでもないだろう。うちの組織が対応している地域は悪の組織の活動が活発ではなく(そもそも街に住んでいる人の数が少ない)、楽そうに見えたとしても特別楽ではない。

 入社して間もない頃は会社の信頼を得ようと必死だった。元世界征服組織の人間を必要としているなら、悪の組織に所属する人々の性質や行動が知りたいってことなのだろうと悪の組織での体験談を話してみたが、いまいち反応がよろしくない。向けられる視線が「お前はここを裏切るのではないか」と語っているようで恐ろしかった。考えすぎだといいけどな。会社は人手不足を解消したいだけなのだろうと俺は結論づけた。

 とはいえ、本来の目的は悪の組織を知ることなんだよな。世界征服する側の気持ちが知りたいんじゃなかったのか……。腑に落ちなかったがごうごうと日々は流れていく。俺たちの間には何もないはずなのに、見えない濁流がうねっている。ああ、いつだったっけな、今笑顔を見せている同僚も「世界征服なんて意味がわからない」と言っていた。

 友人代表の挨拶が終わり、職場の人たちとぞろぞろとメインテーブルに近づく。おめでとう、かっこいいね、写真撮ろうよ、と皆が言う。俺は微笑んでいる。本当に? 緊張している。世界征服なんて意味がわからないと言われた際に、咄嗟に言い返せなかった記憶を思い出している。世界征服は悪だろうが、問題はそこではない。世界征服を望む人は孤独である。全員がそうではない。これは俺の場合。あの孤独をヒーローもわかっているものだと思っていた。お前はそうじゃなかったのか。突き放されたような絶望と不安が表情を強張らせる。俺はこの時に気づくべきだった。同僚と仲良くなっていたとしても、うまくいってなかったと思うよ。俺は俺に言う。負け惜しみに聞こえる。君にもそう聞こえる? あーあ。ようやく今になって心の底から納得する。別に一緒に世界征服をしたいと思ったことはない。微塵も。たくさん会って話がしたいな、くらいのことしか思わない。これは進展性のなさではない。世界征服をするのなら一番の相棒はヤクになるだろう。ただそれだけだ。

 集合写真を撮ろうと皆で身を寄せ合う。俺はヤクを抱き上げる。かわいいね、と周囲の人から構われてヤクは満足げだ。会場スタッフが預かった携帯電話を持って正面に立つ。もうちょっと寄ってください、左端の方、写っていないのでもう少し……はい、大丈夫です、撮りますよ……。

 写真データを見せてもらったが、俺は全然笑っていなかった。

 

「え、今から出動ですか?」

 俺はあからさまに動揺した。申し訳なさそうに目の前に立つ上司は披露宴会場を一瞥し、再び俺に向き直った。

「緊急連絡が入ってね。この近くで悪の組織が一騒ぎ起こしているんだってさ。車で20分程度の場所だけどね」

「近いですね。被害状況は?」

「街の人に直接的な被害はないそうだ。敵さんは奇妙な杖を持っている魔術師。肉体強化の薬を使って街中で暴れていたんだけど、転送装置を使ってなんとか河川敷運動場まで追いやったんだと。人気のない場所に移動できたのはいいが、薬の効果がまだ継続していると聞いたよ」

「……肉体強化の薬? 魔術師なら魔力強化関係のものかもしれませんね……。そういえば、あの河川敷って休日はよくサッカーとかやってますよね? 大丈夫なんですか?」

「避難の指示は既に出しているって」

「この地域を担当している隊員たちは他にもいるでしょう。数だってうちより多いはずです」

 非協力的な発言をしてしまった自分を恥じた。声をかけられて披露宴会場の外に連れて行かれた時点で出動の予想はできていたはずなのに。すぐに行きますと答えていたら今後一切世界征服を疑われなかったかな。どうだろうか。足元でヤクがうろついている。

「それがねえ、他の場所にも別の悪の組織がほぼ同じタイミングで出現して分散しちゃっているんだよ。とにかく猫の手も借りたい状況なんだと。特に敵の動きを止められる隊員がね」

 つまり俺は適役ってことか。開発部が製作した糸を吐き出す機械を手首に装着し、相手を拘束する対応は何度かやっている。ヤクの魔力によって強化された糸は頑丈で一度絡みつけば抜け出すことは難しい。

 とはいえ、俺はただの事務職員だ。ヒーローとして活動できる資格を持っているが、戦闘を担う部署にはいない。都合のいいように使われる。俺と上司はヤクを見下ろした。視線に気づいたヤクが顔を上げる。口元にソースらしき液体がついている。披露宴ではヤクの分の料理も用意されており、一生懸命に平らげていた。

「悪魔くんの力があればきっと大丈夫」と上司は頷いた。

 悪魔は万能じゃない。悪魔がいれば世界征服ができると信じて召喚を試みた人々の逸話が残っているが、誰ひとりとして世界征服を成し遂げていない。つまりはそういうことだ。ヤクの能力を低く評価しているわけではない。わかってくれるか。俺もそのうちの一人だったんだ。幼かった頃、俺は悪魔召喚を試し、召喚されたのがヤクだった。ヤクの名前の由来は見たままだ。ウシ科の動物の姿をしているからそう呼んでいる。動物のヤクはとても大きく、体高が1.5から2メートルほどあり、黒や茶色などの毛を持つが、召喚されたヤクの体は俺の膝の高さに満たないほど小さく、水色だった。ヤクの毛は空に最も近い繊維と呼ばれているから、空の色を吸い込んだのだと思っていた。犬に犬という名前をつけるようなものじゃないかと疑問に思うかもしれないが、当時の俺は必死だったのだろう。自宅にあった動物図鑑で調べたんだ。モップみたいな犬だな、いや犬じゃないな、角が生えている……あ、祖父母の家で飼っている肉用牛と姿形が似ているな……と当たりをつけてめくり続けたページにヤクの説明が載っていた。

 結局世界征服はしなかったけれども、世界征服を志したくなる気持ちがわかってしまう。悪の組織に巻き込まれたから目覚めたのではなくて、元々俺はそんな奴だったよ。目覚めたっていうのも変だな。心の内に潜んでいた征服欲が働き始めたのではなくて、俺を突き動かしたのは孤独だった。

 学校に友人はいたが、なんとなく過ごしにくい。外で遊ぶよりも室内で手芸をしている方が好きだった。運動は不得意だったんだ。手芸が好きなんて変わってるね、とクラスメイトは言った。そうか? と訝しんだが、まあそうだろうなという気もした。でも、納得はしていない。納得させられそうになる自分が嫌だった。手芸が好きなんて変わってるね、の言葉には男性なのにという前置きがある。うっせえよと今では言えるかもしれないが、いや、どうだろう、言っていることは全くの見当違いなのだが、俺は言い返せるか。男子児童の中でそういうものに興味を示していたのは俺だけだった。いや、でも、男性だって刺繍くらいするんじゃないか。家庭科の時間は皆で裁縫バッグを取り出して針を使うじゃないか。ミシンだって使い方を習うじゃないか。俺は脳内で言い返す練習をする。俺は好きなことをしているだけなのに、悪いことをしていると思わされている。なんでだよ。反省するのはそっちだろ。

 小さな学校だったからどのクライスメイトともそれなりに親交はあったのだが、それでも輪から弾かれる時はある。江西抜きで公園に集まってサッカーしてたんだと言われたこともあったな。俺はどんな反応をしたんだっけ。何か言い返せたか? はあ、それで? サッカーくらいすればいいじゃんと思ったが、口に出したっけ? 俺とミサンガを作ってくれる人はいない。

 もう世界征服始めようかな。世界征服をすれば、俺のことを見てくれる人がいるかもしれない。世界のどこかに。そうしてヤクは召喚された。しゃがみ込んで震えていた俺の手に頭を擦りつけて、撫でてくれないかと訴えていた。角に手作りのリボンをつけてやると地面を駆け回って喜んでいた。

 アニメで描かれる悪は大胆不敵でユーモラスだったりするが、小心者でおとなしそうな奴だって世界征服を目指すんだよ。もちろん、全員が当てはまるわけではない。俺の話をしている。

 通っていた小学校は一クラスしかないからクラス替えというものが中学生になるまで存在せず、中学に進学しても小学校からの生徒がそのまま持ち上がる地域だったため、気の合わない同級生も当たり前のようにいて、とにかく肩身が狭かった。その同級生が今何をしているのかは知らない。夢の中では当時の姿のまま現れる。大人になった俺は言い返そうとする。しかし、全く声が出ない。朝になってさめざめと泣く。するとヤクがベッドにやってきて顔を舐め回す。

 披露宴会場を横目で見る。

 世界征服なんて意味がわからない? そりゃあわからないだろうが、わからないなら知ってみてはどうかな。知ることはできるだろう。ヒーローに世界征服したいやつなんていないと思っているだろうけど、お前の目の前にいるんだよ。きっと俺以外にもいるよ。知っておいてくれよ。今度こそ言えるか。予行練習ばかりしている。

「わかりました。すぐに出発します」

 世界征服なんて意味がわからない? うっせえよ、お幸せに!

 

 息をするたびに左の脇腹が痛む。

 避け切れなかった魔術の痛みがじわじわと広がるが、糸を使うタイミングを見逃さないよう注意深く敵を観察する。

「随分とかわいい子が来たね」

 はあ? 何言ってんだこいつ……。呆気に取られていると、敵は数歩こちらに詰め寄った。

 俺は後退りしたが、立ち止まるしかなかった。俺の背後には隊員三名が倒れている。敵から距離をとらなければならないが、隊員たちを人質に取られる可能性が高い。現場に駆けつけるまでに入った情報からすると、目の前の魔術師は人間を求めて街で暴れていたらしい。応援は要請済みだが、一体いつになったら来るのだろう。それまで俺とヤクで時間稼ぎができるだろうか?

「礼服で駆けつけてくれるなんて素敵じゃないか」

 敵のぶしつけな視線に、背筋がぞっとする。

 市民の健康増進のために整備されたこの河川敷運動場は、休日は野球やサッカーをする人々で賑わっているが、日差しが降り注ぐ午後の芝生の上は静まり返っている。

 俺と同じように応援に呼ばれた隊員たちが直ちに避難誘導を開始したおかげで、一般市民に被害は出ていない。俺とヤクも加わって野次馬や逃げ遅れた人々を誘導していたが、敵からすればそれが余計に面白くなかったようだ。あろうことか避難誘導中の隊員たちを魔術で吹き飛ばしたのだ。安全を確保しろと叫ぶ隊員たちの声がぴたりと止み、芝の上に立っているのは俺とヤクと魔術師だけだった。

「ふん、安全確保だ? 随分と平和的なんだな」

「安全確保は基本中の基本だ」

 睨みつけると、敵は薄ら笑いを浮かべた。

 手には見慣れない装飾が施された杖が握られている。水晶のような鉱物がはめ込まれて光を放っているが、注目すべきはその美しさよりも杖の表面に張りついているいくつもの目だ。嫌な汗がどっと吹き出るのがわかった。数ヶ月前にある組織から大量の魔導具を没収したと聞いたが、何かしら隠し持っている組織は多いのだろう。

 目玉は左右や上下に視線を蠢かせているが、時間が経過すればするほど緩慢な動きになり、瞼が閉じられていく。はめ込まれた鉱物が宿している光は時折点滅し、持ち主に何かを訴えかけているかのようだ。

 魔術師は肩で息をしながら大声で笑い出し、おぼつかない足取りで歩みを進める。

「捧げなければ……」

「なんだって?」

「捧げものが必要なんだよ。この杖には人間が必要なんだ。魔力の補充には……」

 目玉の動きが鈍いのは魔力が底をつきかけている証だろう。使用した薬が魔力強化のものなら、その効果が切れたのかもしれない。純粋な肉体強化薬であれば杖などなくともその身一つで飛びかかってくるはずだ。それに、魔術師なら己の魔力を使った戦いを得意とする者が多い。自らの魔力を増幅させて杖を操っているとしたら、一刻も早く杖から引き離すか破壊するか、何かしらの策を実行しなければならない。しかし、分が悪すぎる。魔力切れを起こしているとはいえ、杖から繰り出される魔術の威力は衰えていない。脇腹を掠めただけで立っているのがやっとの状態だ。抉れるような痛みに思わず顔を歪めてしまう。狙いを外さないように、手首に装着した機械を慎重に構えた。俺の糸を使って何としてでも動きを止めなければならない。

「そいつらを寄越せ……」

「止まれ!」

 糸を吐き出して拘束しようとしたが、魔術師が速かった。機械目がけて放たれた魔術は狙い通りに俺の手首に当たり、ひび割れたような鈍い音が耳に届いた。

「ヤク、逃げろ!」

 敵は一気に距離を詰め、俺の胸元を乱暴に掴んで地面に押し倒した。後頭部と背中に強い衝撃が走る。

「悪魔使いか……。随分と小さい個体を連れているね」

「やめろ!」

「悪魔に興味はないよ」

 魔術師は覆いかぶさるようにして俺の体に手を伸ばした。魔術にやられた脇腹を撫でられる。痛みに叫ぶと、敵は嬉しそうな顔をした。クソ、触るな。睨みつけたが、歯を食いしばるのが精一杯で声が出ない。シャツにべったりと張りついた手を払おうとしたが、絡め取られてしまう。

「苦痛に歪んだ顔はなんてかわいいんだろうな……」

 離せ。離してくれ、勝手に俺の体に触れるな。そう訴えたかったが、喉からは呻き声しか絞り出せなかった。

「痛くて声が出ないんだ? ふふ、かわいいね……」

 そうだよ。俺が何も言い出せないのはお前を受け入れているからではなくて、暴力のせいだ。

「人間を基地に連れて行って遊ぶのが流行っているんだ。お前はちょうどいいな」

 シャツの裾が引っ張り出される。その隙間から敵の手が入り込み、直接肌を撫でた。指先が腹から腰へとじっとりと往復する。わざとらしく負傷した箇所を触り続ける。心が痛みで冷めていく。

「そのうち気持ち良くなるよ」

「離せ……!」

「好きだろう、こういうことは」

「何を言って……」

「誰だって好きだしやりたいと思っている」

 そんなわけないだろ。少なくとも俺はそうじゃない。

 男だったらみんな性的なコンテンツや体験が好きだとよく聞くけれど、俺はその「みんな」には入っていない。一体どうやって調査したんですかねと皮肉を言ってしまいたくなる。俺のような人は存在している。でも、いないことにされてしまう。性的であるよう求められるというか、貪欲であるのが当たり前というか、関心なしではいられないと思われている。そんな前提があまりに強くていつも置き去りにされる。

 魔術師は杖を振り上げた。目玉が俺を見つめている。

 右手首に装着した機械から糸を出そうとしたが、全く機能していない。頼む、動いてくれ、故障している場合じゃないだろう。駄目だ、魔術を流し込まれたらもう勝ち目はない……。

 魔術の衝撃に怯えて目を閉じようとした瞬間、魔術師の体が吹き飛んだ。地面に転がる音とともに、短い悲鳴が河川敷に響く。

「ヤク……!」

 魔術師に突進したヤクは得意げに芝の上を駆け回り、再び助走をつけて狙いを定めた。

 しかし、敵は杖を離さなかった。目玉が恨めしげにヤクを睨みつける。鉱物の禍々しい光が一際大きくなり、魔術がヤクに襲いかかった。

「その悪魔は置いていけ」

 悪魔使いにとって、悪魔と引き離されることは何よりも耐え難い。それをわかっていてわざと口にしている。

「お前が来れば倒れている奴らもその悪魔も見逃す」

「嘘をつくな」

「遊んでやると言っているのに……」

 ヤクはぐったりとして地面に横たわっている。

 俺は急いで駆け寄ろうとしたが、杖を握りしめた魔術師が迫った。左腕を殴られ、打ち倒された。よろけた俺をもう二、三度叩きつけた。立ちあがろうとしたが敵の靴の下に踏んづけられ、痛みのせいなのか諦めなのか、俺はほとんど身動きが取れなかった。

「今日からお前もこっち側の人間になる」

 つまり、世界征服ということか?

 しかし、魔術師が夢見る世界征服と俺が目指す世界征服は同じではない。ヤクが傷つき、痛みに喘いで、全てに抵抗できないような世界なんてまっぴらごめんだ。

 そのとき、敵の体が突然よろめいた。俺を踏み潰していた靴が体から離れ、ようやく大きく息を吸い込めるようになった。ぜえぜえと荒い息を吐きながら、痛みを堪えて恐る恐る周囲を見渡した。

 どん、どん、と鈍い音が繰り返される。体を引きずりながらも懸命に魔術師の足元に突進して戦っているヤクの姿があった。

 敵は杖を振り回している。体にぶつかる。それでもヤクは怯むことなく立ち向かっている。

「ヤク!」

 振り上げられた杖とヤクの間に体を滑り込ませた。肩にびしりと杖の先端がぶつかり、思わずうめき声を上げてしまったが、ヤクを抱き込む腕は緩めなかった。

 忌々しい杖の目は全て閉じられている。魔術師の魔力が尽きた証拠だ。まだ勝機はある。

 荒れ狂った敵の杖へ右手首を向けると、突然機械音が鳴り出し、故障しているかと思われた機械から糸が吐き出された。糸は敵の体に巻きつき、ぎゅうぎゅうと縛り上げて、ついに手から杖がこぼれ落ちた。しばらく敵は糸から逃れようともがいていたが、鉄のようなそれに敵わないとわかったのか、次第に動くのを止め、黙り込んだ。

 それから間もなくして河川敷に複数のヒーローが流れ込んできて、あっという間に魔術師を連れ去っていった。

 倒れている隊員たちの元へ駆けつけた救急員は、俺に対しても同様に気にかけてくれたが、自分よりもヤクの治療先を一刻も早く探さなければならなかった。ヤクを抱えたまま救急員に縋りついた。

「病院に行きたいんだ、頼む、ヤクが……。悪魔を診察してくれる病院に……」

 弱々しい呼吸を繰り返すヤクを抱きしめると、柔らかい舌が頬を舐め返した。

 

 世界征服は望んでいないと思われるのに、なぜか性的なことはやりたいと思われているんだよな……。

 俺がまだ十代の大学生だった頃、所属していたサークルのOBに向かってヤクが体当たりしたことがある。悪の組織と対峙していた時と同じような状況だ。つまり、そいつも俺が「その気」だとなぜか思っていて、体を触られたりキスされたりしたんだけど、俺は全く体が固まってしまって、いや従っていたわけではなくて、本当に動かなくなるんだよ。思考も何もかも、停止してしまうんだよな。意思を全てなくしてしまうような衝撃に襲われて、俺自身が奪われて氷づけにされたような感覚だった。嫌だったら抵抗しろとかいうけどさ、全然できなかった。そのOBは大学卒業後に出身地には戻らず大学がある街に留まり就職した既婚者だったんだけど、サークルの活動や飲み会に時々参加していて、何なら親しかったから特別悪い奴だと思っていなかった。その人はある時期に病気で入院して数ヶ月間サークルに顔を出していなかったから、退院後に快気祝いの意味合いで食事に行ったんだけど、「気がある」と思われてマジで意味がわかんねえなと今でも傷ついている。「気」って何なんだろう。俺からオーラやサインみたいなものが出ていたのか? だったら世界征服だってわかるんじゃないかな……。右手の中指に黒い指輪をつけていればお守りになったのかな。

 その日は春先だったが肌寒く、冬物のコートを着て出かけた。丈の長いコートの中に家で留守番させていたはずのヤクがなぜか入り込んでしまっていた(悪魔によっては体のサイズや形態を変化させることが可能だ)から、やけに印象に残っている。突然足元に現れたヤクは相手に飛びかかった。俺は硬直しっぱなしで、よろけて地面に手をついた男をただ見下ろしていた。一体何が起こっているんだと呆然としていたが、体が離れたとようやく気づいて、ヤクを抱えてその場から逃げた。相手は病み上がりだったと後になって気づいたが、帰宅後に届いたメール文には、怪我はしていないと書かれていたから治療費の請求はなかった。その後、件のOBとは会っていない。体調は回復したが会社側の配慮で出身地付近の支店に配属が決まり引っ越したらしい。そのことを人づてに聞くまで大学は安らぎの場ではなく、もし構内でばったり会ってしまったらどうしよう、でも昼間は会社に行っているはずだ、でも休みをとっている場合だってあるよな……と恐怖がつきまとっていた。サークルは辞めざるを得なかった。安全と安心を奪いやがって。俺の人生に二度とか関わらないでほしい。身体上に目立った傷はないが満身創痍だ。

 ヤクがいなかったら本当に危なかったな……と当時を思い出す。もう10年以上前になる。俺はいまだに一対一で男性と個室に入るのが怖いし、そのような状況だと食事を受けつけられない時がある。

 傷を抱えていても、支援機関を利用しながら辿りたい未来へ歩いていけるだろうが、ゴールに瞬間移動はできないわけで、進み具合はいつだって地味だ。しんどいよな。

 他者に性的に惹かれないと言うと、説明の労力が全てこちら側に降りかかってくるんだなとびっくりする。こういう話題になると性欲あるの? と聞かれるのは何なんだろうな。そういう質問はごまんとされているだろうけど、愉快でない個人的質問には答えたくなかったら答えなくてもいい。説明している本やウェブサイトがあるから教えるよ。あと、ロボットみたいと言われるけど、俺にもロボットにも失礼だろ。

 それに、俺は被害に遭う前からずっとそうだった。君には信じてほしい。

 

 厄日から一週間が経った。

 ヤクとともに病院に運ばれた後、俺は数日仕事を休んだ。大怪我しているんだから連日休んでもいいだろう。実際痛すぎて集中できないし、眠ることでさえ一苦労だ。これでしばらくは現場に出ることはないだろうな、資格持ちなのにと失望されるかもしれないけどまあ俺のせいではないしな……と痛み止めを飲みながら考える。

 復帰してからは医療費の申請に取りかかった。もっと休んだらと職場の人たちは声をかけてくれた。人事部との面談で同じことを言われたが、そうなんだけど、そうなんだけど何か違くないか……? 煮え切らないまま、そうっすか……次は安全対策をお願いします……と要点を得ているのかいないのかぼんやりしたまま言葉を紡いでしまったが、俺が言うべきだったのはそんな言葉じゃないのにと思う。訓練慣れしていない人間を現場に向かわせてよかったのか? 俺の訓練不足が今回の負傷につながっていることは事実だが、無事に戻って来られてよかったねと言って終わらせてしまっていいのか? 危険な現場はあるだろうが、ヒーローだって安全第一だ。ヤクがいなかったら今の生活を失っていたと思うとぞっととする。ヤクに救われてばかりで俺は全然頼りにならない。ヤク、ごめんな……。どうしてヤクは俺と一緒にいてくれるんだろう。世界征服をしていないのに。

 式を無事に終えた同僚が白無地の手提げ袋を持って訪ねてきた。怪我は大丈夫かと聞かれる。うん、なんとかね……。ごめん、披露宴の最中に抜け出して、と謝る。気にしないでよと言われる。引出物を受け取り、ありがとう、おめでとうございますと改めて言う。白々しいか? 今度こそ笑えている。見逃したエンドロールムービーを見せてもらったが、入場の最中に拍手していた手元だけが写っていて、俺の顔は画面外だった。ほっとした。撮影スタッフに伝わっていたんだろうか。世界征服を企む顔つきになっていたのかもしれない。

 世界征服なんて意味がわからないと言われたら言い返してやると意気込んだが、結局そんな話題は出なかった。

 ヤクは驚くほど回復した。足を引きずっているが食欲旺盛で、よく菓子をねだった。

 帰宅後すぐに引出物の袋に飛びついていたから、てっきりおもちゃに見立てて遊んでいるのかと思っていたが、目的は中に入っている四角い箱だった。箱の隅にかじりついた跡がある。普段からファミリーパックの菓子袋に頭を突っ込んでいるから、引菓子を探っていたとしても何もおかしくはない。開けてほしいと俺を見上げて訴えている。思いがけず笑ってしまった。

「切り分けるからちょっと待ってて。安静にしていなさいってドクターに言われただろう」

 箱を開けて慎重に中身を取り出す。ここのバームクーヘンおいしいんだよな。しっとりした生地と側面を覆う砂糖衣の絶妙な甘さにうっとりしてしまう。そのまま食べてもおいしいが、軽く温めるとよりふわっとした柔らかな食感が楽しめる。ヤクの分は厚く、自分の分は薄く切り味見する。

 腹がいっぱいになると、ヤクは俺に身を寄せて丸くなった。ソファーに座っていると膝の上に乗ったり太ももあたりに頭を擦りつけたりする行動は普段から見られたが、魔術師と対峙した日からそばにいる時間が増えた。自由気ままに家の中を歩き回ったり眠ったりしているが、出来るだけ俺を視界に入れるようにして動いている気がする。ヤクはヤクなりに心配なのだろう。悪魔使いとして自分はまだまだ未熟だと痛感する。

「世界征服……」

 ヤクの耳がぴくりと動いた。起きていたのか。静かに俺の顔を見つめている。

「世界征服はしばらく保留にしておこうと思うんだ。それでも、ヤクが一緒に歩いてくれると嬉しい」

 ヤクは軽く飛び上がり、手の甲に額を擦りつけた。

 俺はこれから何をしよう。君はこれから何をする?

 撫でているとしばらくしてヤクは眠った。

 俺は汚れてぼろぼろになってしまった角のリボンを作り直そうと、ストックしていた生地をそっと探し始めた。

 

 

参考文献

ジュリー・ソンドラ・デッカー『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』上田勢子訳、明石書店、2019年

アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』羽生有希訳、左右社、2023年