寒雷

 彼女の体は暖房の効いた部屋にあっても相変わらず冷たかった。服の上から何度確かめても、どうして動いていられるのか解明できず、ああでもないこうでもないと、難問を前にしてぐるぐると同じところばかり歩いているような錯覚を覚える。今度こそ真理に手が届くはずだと意気込むが、いくら触ってもやはりわからないままだ。

 押し倒され、好き勝手に体をまさぐられているというのに、彼女は焦りも不快も見せずただただ余裕のある態度を示し続けている。優しさと意地の悪さが混じった目が細められ、微笑みがますます深くなった。

 彼女の腕が背に絡みついた。ぴたりと互いに密着しても暖まることはなく、まるで雪の中に放り出され、氷を抱いているようで心底恐ろしくなる。しかし、その体は体温によって崩れることはなく、痛みに似た鋭い快感を与えた。ため息とも呻きともつかない声がこらえきれなくなった。静まり返った自室で、衣擦れの音と苦しげな己の息遣いがはっきりと響いた。

 回された腕に力が込められる。彼女が笑う気配がする。

 

 ――続いてのニュースです。ちょうど半年前に起こった、××村の研究施設の爆発事故について、爆発の原因は落雷によるものだと調査により判明しました……。

 ――夜8時55分、××駅前の映像です。カメラには雪がちらつく様子が映っています。寒気の影響で、各地では本日未明から厳しい冷え込みとなり、明日まで雪や低温に注意が必要です……。

 解音(かいね)は営業時間を過ぎてもなお店に留まり、待合室にあるテレビのチャンネルを幾度となく変えていたが、いつまで経っても客は訪れなかった。

 最後の客を見送って、帰る支度もせず施術着のままテレビを見始めたのは一時間ほど前のことだ。雪を珍しがるこの地域では、十数センチも積もると大ごとになる。交通機関は麻痺し、運転の見合わせや通行止めが発生するため、ほとんどは早く帰りたがる。冬用タイヤを着用していない車も多いため、事故や大規模な立ち往生も起こりうる。雪降る夜にわざわざマッサージを受けようとする客は多くないとわかっていたが、解音は期待し続けた。だが、玄関のドアは微動だにしなかった。

 解音はマッサージ師である。資格を取得してから様々なマッサージ店で働いてきたが、現在は個人経営の小さな店に落ち着いている。施術室は広いが殺風景で、更衣室が隅の方にあり、カーテンで仕切られた施術台が二つ並んで置かれている。解音一人で施術しているため、同時に使うことはほとんどない。

 元々店を切り盛りしていた店主が体を悪くしてしまい、知り合いであった解音が代わりに店を預かった。働き始めて一年近くが経とうとしている。

 解音はしぶしぶリモコンを持ち上げ、憂鬱な面持ちでテレビの電源を切った。明日が定休日だと思うと気が重かった。

 テレビの音が消えた室内は水を打ったように静かだが、外もやけにしんとしている。

 解音は玄関から外を覗き見た。積もる前に帰らなければと思うのだが、ぐずぐずしてばかりいる。

 ぼんやりと雪を眺めていると、ふと、通りの向かいにある街灯に照らされた若い女性が、夜空を眺めていることに気がついた。解音は彼女の佇まいから目が離せなかった。厳しい寒さの中で薄着であったことも目を引いた理由のひとつだが、形容し難いちぐはぐさが彼女の体から感じられたのだ。

 目があった。若者はぎょっとした顔つきになり、指先を解音の方に向けて声を出した。

「ついてるよ」

「えっ?」

 若者はゆっくりと歩き出し、解音のそばまでやって来た。

「肩まわりにへばりついているよ。誰かから恨まれているわけではなくて、お客さんの感じていることや不調に影響を受けて形作られたものが集まっているだけなんだけど、だいぶひどいね」

 解音は若者を見下ろした。

 年齢ははっきりしないが、解音よりは十か十五は年下で、おそらく成人はしているだろう。妙に落ち着いているが眼差しは鋭く、取り調べをする刑事の印象を抱かせた。身を切るような寒さの中にいたはずだが、手袋やコートなどの防寒具を一切身につけていない。短い髪が解けた雪のせいでやや濡れてしまっている。

「仕事のやりすぎなんじゃない? 人に触れる機会が多いと知らないうちに念をもらって溜め込んでしまうこともあるから、気をつけた方がいいよ」

「どういうことだ?」

「取り憑いてるってこと」

 みえると名乗った若者は、ズボンのポケットから名刺を取り出した。角に折れ目がついてしまっている。紙上には霊能力者だと書かれていた。

 黙って名刺を受け取ると、みえるは「疑っているんでしょう」と悪戯っぽく笑った。

 もっとも、解音は話の内容にほとんど注意を払わなかった。彼の目を引いたのはやはり若者の体であった。ひどい体の歪みもなく、特別大きな問題を抱えているわけでもなかったが、言葉に言い表せない強烈な違和感が好奇心と恐怖を刺激した。彼女の体は整っているがどこか不自然だ。医者の治療によるものではない、悪意と探究心にまみれた強引な調和が宿っている。何者かの手で作り物として修正されたのではないかとあらぬ想像をしまい、戦慄が解音の全身を駆け巡った。答えを知るためには彼女の体に触れなければならないと、そっと唾を飲み込んだ。

「それに、お兄さん、随分と熱心に見ていたね。私の体に興味があるの?」

 氷の鞭のような風が吹き荒み、思わずしかめ面をした。

「霊能力者って伝えると、怖がる人もいるし、能力について聞きたがる人もいるし、本当に幽霊がいるのか確認したがる人も多いけど、あなたは私の体にしか興味がないんだね」

 あながち間違ってはいないが、はっきりした物言いに肩を竦めた。

「誤解を招くような発言はよしてくれ」

 一瞬解音が言い淀んだのを、みえるは見逃さなかったようだ。こみ上げる笑いを抑えきれないのか、からかうように軽く笑った。

「除霊代はもらうけど、終わったらいくらでも調べていいよ。すぐに済むからさ」

 

 解音はみえるを店内に招き入れ、施術室に案内した。

「寒くはないか?」

 念のため声をかけたが、答えを聞く前に暖房の温度を上げた。長袖を着ているとはいえ、生地は厚手のものではなく、見ている方が寒気を感じてしまう。

 案の定、みえるは首を横に振った。ブランケットを渡そうとしたが、やんわりと断られた。

「こんな格好だけど寒くはないよ」

 薄着の自覚はあるらしかった。

「それで、どうすればいい?」

「そこのベッドに腰かけて」と施術台を指差した。

 言われた通りにすると、みえるは満足げに頷いた。

「まずは肩に触るよ。それから、相手の動きを鈍らせて、一気にやる」

 解音の前に立ったみえるの口元には笑みが浮かんでいたが、目つきは真剣だった。

「ちょっと冷たく感じるかもしれない。でも、できるだけ動かないで」

 みえるは黙ったまま、解音の肩を撫で始めた。氷のような冷たさとくすぐったさに解音は身を強張らせた。

 みえるは気温の変化に疎いところがあるかもしれないが、体が冷え切っているのに平然としているのはおかしなことのように思えた。温かい飲み物でも出してやればよかったと後悔した。

 彼女の指先はゆっくりとした動きで解音の肩を行き来し、時折心地よい力を加えた。

「浮かない顔をしているね」とみえるは言った。

「除霊のこと、信じてない?」

「いや、君の能力を疑ってはいないよ。ただ、明日は休みだから……」

「早く帰りたかった?」

「いいや……」

 むしろ、みえるの存在は好都合だった。解音は営業が終わってからもずっと客を待っていたのだ。本音を言えば、定休日を設けずに働きたかったが、いつか復帰する知り合いのために以前と変わらぬ体制で営業を続けている。ここは自分の店ではなかったし、なにより不定休が当たり前になってしまったら、病み上がりの知人にも同じことを求める客が現れるかもしれない。それは避けたかった。たとえ心身ともに健康であったとしても、働き詰めはよくないと頭ではわかっている。だが、仕事をしなければ、人肌に触れる機会がほとんどなくなってしまう。そう思うと、どうしようもない息苦しさを鎮めるために注意を払わなければならなかった。

「ところで、名前は?」とみえるは肩を摩りながら言った。

「解音」

「解音先生ね」

「先生はつけなくていい」

「解音さんはどうして私の言葉を信じたの? 霊って聞くと、普通怪しがるものなんだけど」

「霊ではないけどね、不思議な体験をしたことがあるんだ。目に見えなくても起こってしまうことはある」

「何があったの?」

「幼少期に神隠しにあった」

「へえ」とみえるは声を出したが、手は止めなかった。

「大人たちはそう言っていたよ。もっとも、あまり身に覚えはないけどね」

 小学校にあがったばかりの解音は、田舎の祖父母の自宅周辺で遊んでいたはずだったが、ふと気がつくと山道に立っていた。両親は解音を見て泣いていたが、解音には涙の理由がさっぱりわからなかった。悲しませるようなことは何もしていないはずだった。遊びに夢中になっていたのは確かだが、一時間ほどしか経っていないとばかり思っていたのだ。しかし、大人たちが言うには、解音の姿が見えなくなってからほぼ一日が経過していた。昼間のうちに山に入って迷子になったか、はたまた誘拐かと大人たちが心配する中、夜が明けて捜索が再開されると、山道にぼんやりと立ち尽くしている少年がいたと地元の消防団から情報提供があり、無事に保護されたのだった。時期は初夏の初め、気温が低くならなかったことが幸いし、夜を越せたのだろうと警察は言った。解音は誘拐犯も物の怪も目撃しなかったが、不可思議な出来事に巻き込まれたのは確かだった。

 解音が人肌を欲するようになったのはその頃からだった。自分の見ているもの、感触、匂いや時間の経過、味覚に至るまで、なんとなく自信が持てなくなってしまっていた。今自分が知覚しているものは本当に存在するのだろうか。もしかすると、自分は異次元を覗き見てしまっているのではないだろうか。自分ひとりだけ、誰もいない場所で過ごしているのではないかと不安が尽きなかった。隣に誰かがいれば世界を共有した気になれた。体に触れられればなお良い。感覚を分かち合える。マッサージ師を目指したのはそのトラウマめいた経験が元になっている。

 相手の肉体に触れ不調を暴き回復へと導く過程にはやりがいを感じているが、過労が原因で除霊を施されているようでは元も子もない。解音はそっとため息をついた。

「そろそろ仕上げに入るよ」

 みえるに触れられた箇所は完全に冷え切ってしまった。手のひらの冷たさに鋭い痛みすら感じる。優しく、心地よい力加減で擦られているはずだが、しなやかな指先に鞭打たれているようで、きりきりとしみ込む感覚に思わず身をよじると、「動かないで」とぴしゃりと注意された。施術室の暖房は十分に効いているはずだが、吐き出す息が白くなってはいないかとぞっとした。

 肩を撫でていた手が頭の方に移る。ゆったりと撫でられると、ひどくくすぐったい感覚が広がり、落ち着かない気分になる。熱源が全くない彼女の手は冬の寒さそのものであった。ねっとりと肌を這う彼女の指に酔い痺れて、動きも思考も急速に奪われていく。解音はされるがままだ。もっと触れていてほしいと芽生え始めた望みに身震いした。

「じっとしていてね」

 上半身を抱き込むようにして、みえるの体が寄せられた。

 その瞬間、空間を裂いたかと思われるほどの大きな音が施術室に響いた。攻撃的で、全てを根こそぎさらって行くような轟が解音のすぐ真後ろで音を立てた。地震かと思われたが、部屋は一切揺れていない。みえるが体を離すと解音は急いで背後を確認した。凄まじい破裂音には心当たりがあった。落雷だ。

「終わったよ」とみえるは解音の肩を数回叩いた。

 解音は向き直り、じっとみえるを見つめた。

「一体君は何者なんだ?」

「霊能力者」

「それはわかっているよ」

「確かめてみたら?」と悪戯っぽく言った。

「私を調べたかったんだよね、解音さん」

 解音は施術台に横たわったみえるの体に触れたが、結局のところ、何もわからなかった。

 人間は彼女のように異常に冷たかっただろうか。

 見下ろした肉体には死と再生が纏わりついている。

「どうして君は動いている?」

 解音が再びみえるに覆いかぶさった。

「君は不思議な作りをしている。不調を感じることはないのか?」

 大丈夫だと他人事のようにみえるは答えた。

「残念だが、それくらいしかわからないな」

「じゃあ、ヒントをあげるよ」

 みえるは解音の喉元に歯を立てた。子猫が飼い主にじゃれつくような行動に解音は眉根を寄せ、みえるは笑みを作った。

「一年前、変な研究所に連れて行かれたんだ。そのとき、私は瀕死だった。かろうじて生き延びられたけど、そこにいた職員が体をいじったらしい。なんの実験をしていたのかはわからないけど、今まで見えなかったものが見えるようになって、変な力も加わって……。知らないうちに改造されていたのかもしれない。でも、やられてばかりは嫌だったから逃げ出した。半年前にね」

「よく脱走できたな」

「研究所を壊したからね」

「壊した?」

「爆破したんだ」

「は……」

「信じられない?」

 二人は睨み合った。

 解音は待合室で見たニュースの切れはしを思い出していた。

 ――ちょうど半年前に起こった、××村の研究施設の爆発事故について、爆発の原因は落雷によるものだと調査により判明しました……。

 稲妻に似た爆発音が地響きを立てる。爆風が巻き起こる中、炎と黒煙を背に研究所を後にするみえるの姿を想像する。

「その話が本当だとしても、埒が明かないな……」

「調べ足りない?」

「まあね」

 これ以上みえるの体に触れても真相にはたどりつかない気はしたが、興味が消えたわけではなかった。

 なにより、解音は人肌を求めていた。ずっと触れていたいと膨れ上がった願望を必死で抑えつけようとする。

「君の体に何が施されたのか、どのように作り変えられたのかまでは私には……」

「それでもいいよ。除霊が終わったらいくらでも調べていいって約束だから。また明日来てもいい?」

 施術台から降りたみえるの見透かすような視線に、解音はたじろいだ。

「あ、明日は……」

「ああ、明日は定休日だったね」とみえるは笑った。

「家に連れて行って。そこで続きをすればいいよ」

 解音は呆然とみえるを見下ろしていた。ただならぬ静けさの中で、彼女の提案が甘く忍び寄った。彼女の言葉に耳を傾けてはいけない。体も見まいとした。だが、目が離れなかった。逃げ出したい衝動に駆られたが、みえるに手首を掴まれたことで、体が凍ったように動かなくなった。

「ねえ、雪が積もる前に早く帰ろうよ、解音さん」

 解音は自然とみえるを引き寄せていた。触れてみても、彼女が特異であること以外、やはり何もわからなかった。しかし、手離すつもりもない。もう、とどまれなかった。