夢の狩人

 ×月×日

 若い青年を連れて帰る。

 夢の奥底に住む植物の魔物が、夢の隙間から這い出ていたようだ。運悪く魔物と遭遇した旅人と夢結(ゆめゆい)――この夢結が件の青年だ。本人の口から情報を得ていないが、検討外れではないだろう――が餌食になりかける。夢結は夢の中の調査研究が本来の仕事であるが、夢の隙間を縫うことも彼らの活動のひとつである。恐ろしい怪物が隙間からやってくると言い伝えられているためか、旅の途中でそれらを見つけた場合には修復の作業に入る。青年の持ち物に針や糸などの裁縫道具を確認する。おそらく、この若者は作業中に魔物に襲われたのだろう。魔物は餌が通りかかるのを隙間からじっとうかがっていたに違いない。

 私が魔物を発見したとき、青年は気を失いかけていた。腕や足に絡みつく植物から身をよじって脱出を試みていたが、魔物にとっては抵抗にも値しない、悪あがきじみた行動だった。植物は青年をきつく締め上げ、体力を奪おうとさらに巻きつかんとしていた。

 私は青年を解放するべく魔物を斬り落としたが、彼はその場から逃げようとはしなかった。私の足元にすがりつき、魔物を指差したのだ。

「まだ、三人いるんだ。あの魔物の腹の中に……」

 腹を裂くと、青年の言う通り、三人の旅人が吐き出された。魔物は断末魔の叫びを上げて動きを止めた。

 夢を旅する彼らは皆軽症だった。そのうち夢から覚め、ひどい悪夢を見たと胸を撫で下ろすだろう。しかし、夢の中でほとんどの時間を生きる青年だけは例外だった。

 青年を連れて帰ったのは、解毒剤を与えるためだ。腹の中に入っていた三人と比べて、明らかに与えられた毒の量が多い。魔物が手こずった証拠だ。ついぞ腹は満たせなかったが、毒を注げば注ぐほどすぐに弱ると見込んだのだろう。

 毒は黒いアザとして彼の体に現れた。根を張るようにして上半身を覆ったそれは、青年に快楽の苦しみを与えた。体内でのたうち回る甘い炎を消すことができず、引きずり込まれそうになるとたまらず呻いた。すぐに解毒剤を飲ませたが効きが悪い。回復の兆しが見られず、ベッドの上で荒い呼吸を繰り返している。

 体の熱が治らないため、触ってほしいと助けを求められる。肌を撫でてやると、その若者は戸惑いと怯えを浮かべながら行為を受け入れた。他人に触れられるのも、自分の体の変化にも慣れていないようだ。薬が効けば落ち着きを取り戻すだろうが、思いの外、解放までに時間がかかるかもしれない。

 首筋に指先を這わせ、ゆったりと往復させると、ぼんやりとした目がこちらを見た。のけぞった喉や無防備にさらされた首を見ると、妙な飢餓感がふつふつとわき上がる。

 

 ×月×日

 数日の間、青年はほとんど寝込んでいた。解毒剤を飲ませてはいるが、毒は青年を苦しめ続けている。

 ベッドに横たわる青年は、腹が熱いと訴える。服を取り払う。初めて解毒剤を飲ませた日に比べれば、黒いアザはやや色が落ちたが、相変わらず青年の体にまとわりついている。

「おなかが、熱くて……」

 こちらを見上げる、信頼と戸惑いが宿った瞳。青年は毒が与える快楽をやり過ごそうと身を縮ませ、できる限り耐えようとするが、最後には必ず私に助けを求める。私は彼が求めるものを与える。もういらないと言うまでは。

 私の手を取り、熱を持った自分の腹へと導いた。

「お願いです、触ってください……」

 わずかに指先に力を込めて肌に触れると、吐き出す息に熱と甘さが混じり、目は潤みを増した。

 

 ×月×日

「助けてくださってありがとうございます。僕は夢結の羚(レイ)と言います」

 顔色が良い。ようやく青年自身から身元の確認を得る。私の予想は間違いではなかった。毒はまだ残っているが、早く良くなることを願う。

 礼をしたいと述べる青年に一瞥を投げてから、私は『解毒剤を飲むように』とノートに書き記し、机の上に薬と水を置いて部屋の外に出る。青年を寝かせている部屋は薬を調合する際に使用する実験室だ。引き出しや棚を探れば至るところに薬がある。材料となる薬草は外の庭園にある。植物を管理し、薬を作り、夢の中を歩き回り、魔物を退治するのが日課だった。どうして毎日をそのように過ごしているのかは、とうの昔に忘れてしまった。かつて自分がどうあったのか、覚えてなどいない。

 しばらくして、背後から慌てた様子の足音が追いかけてくる。だが、決してそばには近寄らず、一定の距離を保ってこちらをうかがっている。帯刀している私が恐ろしいのだろうか。青年の安全が確保されている状況で、武器は持ち歩くべきではなかったと反省する。

 私は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。青年も歩みを止める。

「あの、あなたは一体……」

 彼の問いに答えることはできない。

 なぜなら、私は自分を語る言葉を持っていない。

 庭園に到着すると、青年は緑あふれる空間を見つめたまま言った。

「植物園……?」

 私は庭園と呼んでいるが、ドームに覆われ、様々な花が季節関係なく咲き誇る様子は、巨大な人工植物園に迷い込んだかのような印象を抱かせるのだろう。

 蛇口をひねり、ホースを持ち出して普段通り水をやった。夢の中にある庭園は他の地域にいくつもあるが、水をやらずとも植物が枯れることはない。庭園の管理は夢を過ごす者それぞれに任されており、わざと枯らしたままにして朽ちる姿を楽しむ管理者もいる。私が日々行っているこの行為は植物にとって無意味だが、己の記憶がない自分を見失わないためにと無意識に作られた習慣なのかもしれない。ただでさえ、夢の中で自我を保つのは難しい。それができなければすぐに目覚めがやってくる。この世界を縦横無尽に探検したがる夢の旅人――つまり眠っている人間――にとって、懸念されるのが目覚めだ。彼らは目覚めないように必死である。足元がおぼつかず、酔っぱらいと思しき旅人を見かけたら目覚めが近いと見て間違いない。その点、夢結は夢の旅に長けた数少ない存在で、青年もそのひとりだ。夢結は旅人を助け、助けられた旅人は別の旅人を助ける。夢の中で出会った旅人同士が目覚めの後再会できるとは限らない。だからこそ、受けた恩を別の誰かに返して緩やかに世界を繋ぐ。この夢に広がる暗黙の了解に従って、私は青年を助けた。礼などいらなかった。

「あなたの名前は?」

 青年は私の隣に立ち、慎重に質問を重ねていく。

「その、あなたがつけているお面は……」

 黙ったままの私を不安そうに見つめる。怒らせたのではないかと心配なのだろう。拒絶ではないと伝えなければならなかった。

 私は水を止めると、空いた片方の手で自分の喉元を触り、首を振った。私の声は失われているのだ。

「そのお面はフクロウを模しているんですか?」

 おそらくそうなのだろう。自分で選んだものを身につけているのか、誰かに命じられて被ったままにしているのか、思い出すことができない。記憶が抜け落ちている。私そのものの記憶。名前も、生まれも、経歴も、声も思い出せず、夢の中を彷徨っている。これではまるで亡霊だ。自らが失われても目覚めはない。

 面の一部を稼働させ口元を晒すと、青年は目を見開き、興味深げな様子で言った。

「形を変えられるなんて、便利ですね」

 牙には驚かなかったようだ。

 

 ×月×日

「あなたは吸血鬼ですね」

 水やりを終えた青年が私に近づき、「牙を見ずともわかります」と穏やかに微笑む。緑に囲まれ、明るい日差しを受けて佇む青年は光に満ちている。

「夢の中で植物を管理している者の多くは吸血鬼です。吸血鬼は花を好みますから。それに、あなたがつけている仮面は、牙を隠すために昔吸血鬼の間で使われたものですね。でも、日常的に使われているとは知りませんでした。今出回っているのはお祭りや儀式用の物がほとんどだと本で読んだことがあります」

 現代の吸血鬼は血を必要とせず、十字架も銀も日光でさえ忌み嫌うことはない。そのような特徴を持つ吸血鬼は物語だけに登場すると扱われるように、古代吸血鬼と現代のそれとでは大きな乖離がある。かつて吸血鬼は夜の支配者と呼ばれ恐れられていたが、現在は他の種族とも良好な関係にあるため、吸血鬼の加護があれば怖い夢を見ないと認識されるまでになった。今や吸血鬼は夢の中においては幸運の象徴である。だが、自分自身が幸運を表しているとは思えなかった。

「簡単な手伝いしかできないけど、治るまで一緒にいてもいいですか?」

 庭園の管理を手伝いたいと言い出したのは青年だった。薬の礼だという。礼など構わないと書いても引き下がらない。案外頑固だ。静謐な水の流れを思わせるような、しなやかさと穏やかさを持っている。

 蛇口を指差し、水やりの身振りをすると、嬉しそうに駆け出した。それから毎日水やりは彼の仕事になった。疲れを見せる日もあるが、体調の良い日が続いている。アザも消えつつある。あと数日もすれば、魔物の毒は解毒剤が追いやってくれるだろう。それまでは彼に触れる夜が続く。

 

 ×月×日

 青年の一部を喉に収めたい。ふとそんな思いに飲み込まれそうになればなるほど、体は熱を持ち、私が幸運の象徴ではないことを知らしめる。

 組み敷かれた青年は私にしがみつき、されるがままになっている。

 快楽が抜けきらないのか、今夜も助けを求められた。

「自分で触っても駄目なんです。あなたのようにうまくできなくて……」

 ゆったりと体に手を這わせると、私を懸命に受け入れる。

 彼の肌に歯を立てたなら、どんな反応を示すのだろうか。一度考え出すと、視線は彼の首筋から離れなくなった。恐る恐るそこに唇で触れると、柔らかな肉があった。彼は逃げることなく、少し震えただけで、ぐったりとしている。

 滑らかな肌に牙が押し入り、何度も跡を刻みつける想像をする。短い悲鳴めいた喘ぎをこらえきれず、身をよじろうとする青年の体を押さえつけて、繰り返し、繰り返し……。それでも青年は涙で濡れた眼差しに信頼を宿し続けている。

 抑えがたい衝動がじわじわと膨らみ上がってきて、暗澹たる思いに囚われる。

 

 ×月×日

 青年の仕事に同行する。

 草原にぽっかりと穴が開いている。夢の隙間だ。魔物はいない。青年は道具を取り出し、丁寧に隙間を縫っていく。私はその横顔を眺める。風が止み、周囲は静けさで満ちている。

 予想していた通り、数日後には青年の体から完全に毒がなくなった。肌を覆っていた黒いアザも消え、水やり以外の手入れもしたがるほど体力も回復した。さらに数日が経つと、ついに夢の中を散策すると言った。夢結の仕事を再開するのだ。無理をしてはいないかと引き止めたくなり、出かけようとする彼の服を摘む。青年は穏やかな表情を向ける。

「あなたが良ければ、一緒に行ってくれませんか。警護をお願いしたいんです」

 武器を携えて彼の隣に並ぶと、信頼に満ちた視線がこちらを見上げていた。

「あなたがいると心強いな」

 しかし、私は彼の護衛を続けられるわけではなかった。遠方に大きな夢の隙間が発見されたと、彼の元に知らせが舞い込んだのである。修復のためにチームを組み、複数人で旅をしなければならない。情報と準備が整い次第、出発するのだと青年は神妙な顔つきで言った。彼には彼の仕事があり、私にもすべきことがあった。

 青年が知らせを受け取ったほぼ同時期に、私の元にも依頼の手紙が届く。差出人は不明だが、雪山に魔物が出現、目撃情報が旅人の間に多く出回っていると書かれている。青年が対処せねばならない夢の隙間が関係しているのかは不明だが、いずれにせよ、武器の手入れをしなければならない。

「雪山は、肺も、息も、頬も凍りつく場所だと言われています。気をつけてください。出発はいつ?」

 明日、とノートに記す。

「では、僕も明日ここを立ちます」

 私が去っても好きなだけいるといいと伝えたが、彼は首を振った。

「数日のうちにここを出るつもりでした。夢の隙間の情報をまだ多くは入手できていませんが、他の夢結と合流しなければなりません」

 戸惑うように彼の腕が私の服をそっと掴んだ。手を伸ばしたまではいいものの、体を預けてもいいものかどうか、迷っているように見える。

「……ただ、最後にお願いを聞いてくれませんか」

 最後などと言わないでくれ。

 仮面の下で彼の名を呼んだが、音になることはない。

 私は彼を引き寄せて、温もりを腕の中に閉まった。

 

 ×月×日

 後ろから抱きかかえて腹を撫でてやる。幼子を寝かしつけるように、そっと手のひらに重みをかけて指先で叩くと、一際大きな声を出すことを知る。身をよじって快楽から逃れようとするが、制止の言葉はない。続行する。優しく圧迫し、揺すり、撫でさすると、背をしならせ、小刻みに体を震わす。喘ぎが熱を孕んでいる。青年の指先が私の腕を引っ掻いているが、痛みはない。爪を立てる気力もないようだ。

 もう終わりにするのか? 

 手を離そうとすると、彼は頭を振った。荒い息を整えながら、掠れた声で呟いた。

「まだ、やめないで……」

 首筋が赤く染まっている。

 ああ、そうだったな。

 毒が消えても、夜明けまで共にいてほしい。そう願ったのは羚だった。

 朝を告げる小鳥はまだ眠っている。