記憶の独占

 「だからさあ、僕たちはその記憶を食べていないって何度も言ってるでしょ」

 悪魔使いはひるむことなく、ふてぶてしい態度で答えた。捜査官を睨みつけてから、少し癖のある黒髪をかき乱して不満げに足を組み直す。同時に、パイプ椅子ががたがたと耳障りな音を立てて揺れた。

 対面に座る中年の捜査官は何度もため息をつき、その隣に佇んでいる若者の姿をした悪魔もちらりとこちらをうかがって肩をすくめた。

 取り調べ室は清潔だったが、殺風景で狭苦しく、やや薄暗い。午後の穏やかな日差しの中を歩いてここまでやって来たが、この部屋では太陽の暖かみなど感じられなかった。

 この空間に漂う陰鬱さを非難するように彼は鼻を鳴らした。

「三日前、一人の政治家が記憶喪失になった。あれは悪魔の仕業だ。君たちが依頼を受けた場所からそう離れていないところで起こったことだ」

「確かに僕たちは相談者の記憶を食べて金をもらっているけれど、政治家からの依頼を受けたことはないよ。おじさんは僕たちを犯人扱いしたいようだけど、残念ながらその推理は的外れもいいところだ。馬鹿馬鹿しい。ちゃんと証拠を持ってきてから言ってよね。営業禁止まで言い渡されたら、こっちだってたまったもんじゃないよ。このまま記憶を食べられなくなって、彼が腹をすかせたままでいたらかわいそうじゃないか。収入がなくなったら僕まで飢え死にだ」

 ねえ、そうだろう、と私に同意を求めた。

 彼はすでに成人しているが、我慢強さのようなものはあまり見られず、こうして子供っぽい振る舞いをすることが多々ある。機嫌の悪さを隠そうともしなければ、強い口調で相手を責めることも珍しくない。時が過ぎるのを辛抱強く待つのは苦手なようだ。だらしない格好をしているわけではなかったが、礼儀正しさからかけ離れた対応が品のなさを加えてしまっている。

「事件が起こったあの日、僕たちは腹がいっぱいだった。記憶をもっと食べたいからと政治家を襲っていないし、被害者と敵対する誰かから賄賂を渡されて相談を持ちかけられることもなかった。まあ、政治家同士の揉めごとに悪魔が絡んでいるのはよくある話だけど、僕たちはそういうことには手を出さないと決めているんだ。リスクがあり過ぎるんだよ。たくさん金をもらえたとしても、だいたい仕返しが待っている。それに、今日みたいに悪魔取締局から目をつけられたんじゃあ、平穏な生活は得られないからね。そんなことより……君の隣にいる悪魔の方に興味がある。一体どんな能力を持っているんだい?」

 彼は突然ずいと身を乗り出した。

「捜査官、契約の条件は? 悪魔と組んだ感想は? うまくいってる? そうだ、悪魔くんにも質問。この捜査官と組もうと思ったきっかけは何?」

 彼のおしゃべりは止まらなかった。問い質される立場だというのに、事件とは関係のないことばかり聞きたがっている。

 捜査官と悪魔は呆れた様子で青年を眺めていた。捜査官の指先が腹の底に溜まった苛立ちを発散させようと机の上を叩き始めたが、彼は気にもとめずに話し続けている。捜査官は今すぐ口を塞ぎたがっているに違いない。若い悪魔は困り果てて相棒の顔をちらちらと確認し、まあまあ、落ち着いてください、まだ聞かなきゃいけないことがあるじゃないですか、と恐る恐るなだめていた。

「これ以上何を聞く必要があるっていうの? もう答えることはないよ。記憶は食べてないんだから。やってないことは答えられない」

「君の使い魔が勝手に食べたかもしれない」

「まさか!」

 間髪入れずに答えた。嘲るような口調だった。

 椅子を引き、体の向きを変えて、彼は私を見上げた。

 控えめで、相手の顔色ばかりうかがい、言葉を慎重に選んでいた子供の頃の面影はほとんど見られなくなってしまったが、優しさや思いやりを失っているわけではない。目の前にいる捜査官とその相棒らしき悪魔には同意してもらえないだろうが、苛立ちや不満を素直にぶつける姿ばかりが目立っていたとしても、彼は悪魔である私に信頼の眼差しを向けて、非常に良くしてくれている。

 自分に従う悪魔は決して裏切らないと信じている彼の表情を見ると、どんな命令でも聞きたくなってしまう。同時に、心を全て奪いとってしまいたくなる。好奇心に満ち溢れ、子供のような輝きと美しさに澄んだ瞳には、時間の許す限り眺めていたいと感じさせる愛おしさがある。初めて出会ったときの幼さはなくなりつつあるが、じっくりと物事の本質を見極めようとする神経質で思慮深い眼差しは今も彼の中にある。

「僕たちは相談者の記憶を食べた後、休憩がてら喫茶店に入ったんだ。店を出た後もずっと一緒にいた。そうだよね?」

 私は頷いた。彼はその反応を見て満足げだったが、捜査官はいまいち納得していない。じろじろと探るような視線を受けて、彼は再び口を開いた。

「レシートを確認しただろ。支払いを済ませた時間もそこに書いてある。ちょうど事件が起こった時間帯に店を利用している。店員も僕たちを見ている。そもそも、事件現場近くにいたからって、なんでこんなに疑われなきゃいけないわけ?」

「可能性がある人物は全て調査することになっている」

「可能性……? あっ、そうか、お偉いさんに犯人を早く捕まえてこいって言われて、仕方なくそれっぽい悪魔使いと悪魔を連れてきたってところでしょ。時間稼ぎ? 勘弁してほしいよね。おじさんだって、僕たちが犯人じゃないってわかっているんでしょ。一応調べましたって報告書に残しておかないと大変だもんね。僕たちのことを取り調べている間に、他の仲間が捜査にあたって、本当の犯人を探してもらってさ……。でも、だからといって、アリバイがあるのに近くにいたってだけで犯人扱いされるのは気分が悪いよ。どうしてくれるんだよ、おじさん」

「現場付近に君たちがいた事実はあるにせよ、今回ここに来てもらった理由はそれだけではないんだよ」

「他に理由が?」

 怪訝そうな声に反応して、今まで沈黙を保っていた若い悪魔が口を開く。

「だってあなたの悪魔は……」

 青ざめた顔をして、声に出すのも恐ろしいといった様子で、目をさまよわせながら囁いた。

「凶悪犯だから」

 

「なんだ、君、札付きの悪だったの?」

 彼は背伸びをして大きなあくびをした。脱いだジャケットをソファーに向かって放り投げる。またしわになるぞ、と目で訴えるが、彼はべえと舌を出した。

 日はすでに沈んでいた。取り調べからようやく解放されたが、彼は心身ともにすっかりくたくたになり、帰り道では不満ばかり呟いていた。

 ベッドの上でくつろぐのを心待ちにしていたのか、玄関のドアを開けると真っ先に駆け出して着替えもせずごろごろと寝っ転がり、喜びの瞬間を堪能してから先ほどの質問を投げかけたのだった。

「一体何をやったんだ? 殺し? 盗み? 反逆?」

 彼は眠たげだったが、むくりと上体を起こし、隣に座るようにと手招きした。近寄った私の手を強く引っ張って、教えて、と急かした。

「君とは長い付き合いだけど、全然知らなかった」

 私は手首に巻きついた彼の手を優しくほどいた。ねえ、と答えをねだる声を無視して、彼の耳を塞いだ。質問に答えたくないときの意思表示だ。彼の目は私をまっすぐ見つめていた。

「そう。まあいいや。仮に君が凶悪犯だったとしても、今回の事件に僕たちは関与していないってあいつらにわからせればいいんだからね」

 そっとしがみつくように私の腕を掴んだ。

「付き合いが長いといっても、僕には記憶がないから、昔の君をあまり覚えていないんだ。でも、今なら覚えている。君といて良い思いばかりしているからね」

 彼は体を離し再び横になった。目を閉じている。口元に指を這わせると、うっすらと目が開いた。

「うん、何か食べないとね。でも、今は眠くて……」

 お湯を沸かしている間に彼はぐうぐうと寝息を立ててしまっていた。

 警戒心のない姿は昔を思い出させる。彼の記憶の味と心をいじったときの興奮がふと蘇り、ぐっと喉を締めつけた。

 

 人間の魂は一度食べたらやみつきになってしまうほどの味がするのだという。実際に口にした者を見かけたことはないが、あれは禁断の食べ物だと皆が噂している。それほど貴重なものであり、悪魔を魅了する人間の持ち物のひとつだ。心も同様に素晴らしい味がする。その中毒性は悪魔でさえ狂わせる。心を味わった悪魔は普通の食事が二度とできなくなってしまう。好んで食べていた不幸、感情、記憶、快楽、幸運たちは味気ないものとなり、口の中で何度も心の思い出が繰り返されるのだ。飢えに支配され、夜な夜な人間を襲い、心を求め、ついには発狂してしまうと伝えられている。あまりの恐ろしさに、心は与えないでくれと怯える悪魔すらいる。

 一方で、悪魔使いは何があっても心を渡してはいけないと教育を受ける。魂なんてもってのほかだ。悪魔を従えるため、意志を貫き、しっかりとした軸を自分の中に持たなければならない。欲望を直視し、その形を捉えながらも決して振り回されず、飼いならす必要がある。悪魔を扱う際には様々な曖昧さを嫌うのだ。

 しかし、彼は子供の頃からそれができなかった。悪魔使いの家に生まれた彼は、親やその先代と同じように悪魔使いになるよう求められたが、悪魔である私から見ても、その道は諦めた方がいいだろうと助言をしたくなるほどだった。

 彼は自分の感情に疎く、周りばかり気にして自分の欲求に目を向けることが少なかった。控えめで後ろ向きであり、悪魔を支配するという考えがなく、いつも友達になりたがっていた。本を読むのが好きで、悪魔に関する書物は喜んで読んでいたが、知識は満たされても実践になるとてんで駄目だ。この先ずっと苦労するだろうと悲しい気分になったものだ。

 全ての悪魔が人間と仕事をするわけではないが、私はずっと人間たちと関係を築き上げてきた。仕事に対する信頼が積み上がれば、契約の回数も増加し、うまい記憶にありつける。勝手に人間の記憶を食す悪魔もいるが、悪魔取締局に捕まり、牢獄送りになるリスクを考えると、素直に人間に従っていた方が楽だった。

 彼と初めて出会ったのは、赤ん坊の頃ではなく、とっくに歩けるようになり、字も読めるようになってからだった。名の知れた悪魔使いの家(そこは以前にもよく仕事を任されたことがあった)に子供が生まれたと耳にしていたが、野次馬のように押しかける気も起こらず、記憶消去に関する依頼が舞い込んできた際にようやく屋敷に向かったのだ。そのときに見た彼の泣き顔はまるで生まれたてだった。赤ん坊のように大声で泣きわめき、顔はぐしゃぐしゃに歪んでいた。しばらくするとうずくまって鼻をすする。体は小さく震えており、涙は依然止まらない様子だ。悪魔使いになるための教育がうまくいっていないのだと父親である契約者はぼやいていた。

 仕事終わりに彼の元へ行くと、絵本を読んでいるところだった。読んでほしいとせがまれたのでその通りにした。それを何年も繰り返したある日、彼はそっと秘密を打ち明けるように囁いた。

「僕、悪魔使いになりたくない。でも、みんなが悪魔使いになれって言うんだ。もし、悪魔使いになったら幸せになれるのかな……」

 君は何になりたいんだい、と問いかけると、ハードカバーの本を棚から引っ張り出したのだった。

「このひとみたいになりたい」

 どうやら、彼の憧れは小説に出てくるキャラクターらしい。大胆不敵で勇気があり、追い詰められても決して諦めない意志を持つ自分とは真逆の存在。相棒と世界中を旅している冒険者。夢のために突き進み、立ちはだかる敵たちを得意の体術でなぎ倒す。ちょっと荒っぽいが情に脆い部分もあるのだとその人物の特徴を興奮気味に説明する。そして、俯きながらぽつりと呟く。

「自分の言葉でちゃんと言えたら、諦めてくれるかな」

 潤んだ眼差しが向けられると、柔らかなまつげが涙に濡れた。

「ねえ、お兄さん。僕がもしどうしようもなくなって、もう生きているのもつらくなってしまったら、記憶も心も、全部食べてくれる……?」

 心は渡してはいけないと忠告したが、彼は聞く耳を持たなかった。初めて見せた強情さに私は少々驚いた。

「これは契約だよ。もしものことがあったら、僕の心に触って」

 小指同士が絡まった。ひどく温かい体温が伝わった。

 

 約束を交わしたその翌日、彼の声は奪われた。悪魔にそそのかされたのだ。

 お前に勇気をやるとその悪魔は契約を持ちかけた。悪魔使いにならないと宣言するために必要だと、まるで人助けでもするかのように優しく告げたのだという。おそらく、私との契約のやり取りを盗み聞きしていたのだろう。その悪魔は声が好物であり、世間知らずで半人前の彼が相手であれば簡単に奪えると思ったのかもしれない。

 この事件をきっかけに、彼は家族や親戚からも煙たがられるようになった。悪魔に傷つけられた彼を一家の恥だと思うようになったのだ。他の悪魔にもこの出来事はすぐに伝わった。悪魔に騙され、いいように扱われ、悪魔使いとして落ちこぼれの烙印を押された彼を主人として認める者はいないだろうと哀れんだ。彼はますます塞ぎ込み、絶望の中に置き去りにされた。

 私は彼との約束を実行した。記憶を全て食い尽くし、その味は忘れられないものとなった。

 失ったものは取り戻せないが、与えることはできる。私は自分の声を彼に譲った。声を奪った悪魔は私の手で牢獄へと送った。

 全てを忘れ、また生まれ変わればいい。彼は悪魔使いになりたくないと言ったが、私は彼との関係を絶ちたくはなかった。記憶を食べられてぐったりとしている彼に手を伸ばし、心に触れた。絶対に明け渡してはいけないと言われている心。

 記憶を食べたくらいでは、性格的なものは変わらない。だから心をいじった。おとなしく引っ込み思案だった彼は以前と比べてはっきり物を言うようになり、ふてぶてしく、傲慢さを持つようになった。様変わりした彼を見て、ひとの気持ちに鈍くなったと悲しむ声もあったが、彼の家族は悪魔のしでかしたおぞましい行いを見て見ぬ振りをした。彼が悪魔使いとしてやっていけるのは心に細工をしたからだと認めざるを得なかったのだ。

 しかし、このことがきっかけで私は大罪を背負うこととなった。たとえ主人が命じたとしても、人間に仕える悪魔にとって、心への細工は禁じられている。声を奪ったあの悪魔と同様、私は凶悪犯となった。あの家族が悪魔取締局に働きかけたことで幸いにも牢屋は免れたが、彼との面会を禁止され、私は屋敷を追い出された。悪魔取締局に目をつけられてからというもの、記憶を求めてさまよう日々が続いたが、主人に背いた悪魔を使いたがる人間はいなかった。

 彼は記憶も心も食べてくれと言ったが、私は心だけは口にしていない。しかし、心に細工を施してからというもの、記憶を食らっても腹は満たされず、彼の体温や眼差しがじくじくと体を蝕み続けるようになった。絵本の読み聞かせをねだる声、優しげな目つき、秘密を打ち明けたときの信頼と不安が混ざった表情、与えられた小指の温度、彼に関わるもの全てが思い出されると、舌が痺れたようになり、喉が締めつけられ、息苦しさを覚えるのだ。だが、助けも呼べず、声を上げることもできずに苦しみをやり過ごすしかなかった。私は言葉を発することも届けることもできず、彼に私の存在を知らしめることができなかった。

 飢えが幻覚を見せるときもあった。彼が私のそばに来て、耳元で囁くのだ。僕の記憶の味は覚えてる? ぞくりと小さな疼きが全身を駆け巡った。私は頷いて、さらなる声を待ち望んでいる。契約を結び直し、彼を腕の中に閉じ込めてしまいたかった。早く、早く命令を……。無言の懇願を丁寧にすくい上げた彼は言う。もう心配いらない、ずっと一緒にいよう。

 心に触れることは食べることと同義なのだろうか。思い出に翻弄され、ほとんど発狂しそうになっている私を見て、皆は軽蔑をにじませて言う。主人を裏切った罰だ、手の施しようがない。

 月日が過ぎ、飢えの中にいる私に手を差し伸べてくれたのは、悪魔使いとして一人前になった彼だけだった。

 

「もっと強く触って」

 彼は私にもたれかかり、額を胸に強く押しつけて子供のように甘えた。

「あの捜査官の悪魔に頭の中を覗かれた。これで疑いが晴れるならいいかと思っていたけど、気持ちのいいものじゃないな」

 政治家の記憶喪失事件の捜査に関わっている悪魔は、彼の話を聞く限りでは、私と同じように記憶に介入できる種類の悪魔のようだ。

 捜査官から呼び出しがかかり、彼だけが渋々出かけていったが、家に帰るなり真っ青な顔で飛びついてきたのだ。私は頭や背中をゆっくりと撫でてやった。突然、懐かしい記憶が蘇った。彼がまだ小さかった頃、泣きじゃくっていた肩を抱き、背中に触れたことを唐突に思い出したのだ。

「君以外に触られたくないんだ」

 彼は私以外の悪魔と積極的に契約を結ぼうとしない。仕事で使うことがあっても、最小限にとどめている。他の悪魔からの接触も嫌っている。

 君じゃなきゃ嫌だと彼は何度も言った。力を込めて抱きしめると、安心したようにため息をついた。

「君に触れると、触ってもらえると、とても落ち着くんだ」

 悪魔使いとして彼を作り変えてしまったのも、堕落させたのも私だった。

「どうして?」

 声がわずかに震えている。おずおずと私の背中に手が回る。

 ああ、心は渡してはいけないと言ったのに。