亡霊たちの夜明け

 海も空も灰色だ。振り返ると高台に墓場があり、横にいるキャリバンは鼠色のスーツを身につけている。吹き荒れる冬風すら鉛色に染められているのではないかと錯覚してしまうほど、辺り一面を灰に囲まれている。

 私は物語を紡ごうと試みるキャリバンの横顔を見上げた。

 彼は今リビングデッドだ。怪異めいた存在になった男が墓場で人間と出会うシーンから始まる。怪我を負っているため息苦しそうに話す。時折痛みによる呻きで声を詰まらせる。彼は不死ではなかった。リビングデッドと呼ばれているが、その呼び名は墓場から這い出て動き回っている姿に由来するものではない。「人間ではない者」を指して使われる。男は自分を襲った怪異と融合して得体の知れない何者かになってしまったが、痛みや感情に変化はない。「私を退治するつもりか」と目の前に現れた人間に怯えているが、悟られないよう精一杯の虚勢を張る。だが、人間は男の怪我と恐怖を見逃さなかった。素早く応急処置を施し、心配そうに具合を尋ねる。男は戸惑いつつも、大人しく手当てを受けている。

 彼の声はごうごうと鳴く風に混じって耳に届いた。

 淡々と、しかし芯のある声で繰り返しセリフを練習している。青白い顔をしているが、体を震わせることもなければ、風で荒らされた髪を直そうともしない。

 私は背後にある墓場を見上げた。重く垂れ込めた雲から今にも雪がこぼれ落ちそうだった。

「墓場に行きたい」

 そう希望したのはキャリバンだった。私は驚きとともにその提案を受け入れたが、返事をするまでにしばらく時間がかかってしまった。

「君が書いた作品、墓場から始まるだろう」

 返答までの沈黙を疑問と受け取ったのか、彼はうっすら微笑んで言った。

 私は趣味で音声作品のシナリオを書いている。リビングデッドと呼ばれる男が人間(作品内では聞き手を想定している)と心を通わせていくストーリーだ。主人公のセリフのみで物語は進む。人間ならざる者として生きる男は、心根は優しいが孤独に苛まれている。他者との交流を深めながら少しずつ心を開いていく過程を描いているため、登場人物の不安や喜びを絶妙に表現できる、繊細な演技を得意とする役者に演じてもらいたいと考えていた。

 キャリバンは適役だった。生前は舞台俳優をやっていて、悪役をよく演じていたそうだ。今でも演じるのは好きだと穏やかに答えるが、人前に出るのはちょっと怖い。スポットライトを浴びるのはもっと怖いらしい。強い光が苦手だという。でも日光は平気だ。薄曇りの日に出かけたがるのは影の存在を気にせずに済むからだ。

「出かけるのは構わないけど、墓場に行ってどうするの?」

「現場に行くとより作品のイメージがわくと思ったんだ」

 彼の意図が掴めず、困惑の視線を投げかけた。

「どうかした?」

「本当に出演してくれるんだ……」

「ああ、もちろん」

「よかった。実は乗り気じゃないのかと思って……」

 今度はキャリバンが目を丸くした。

「だって、すぐに役を受けてくれたわけじゃなかったから」

「あの劇場に現れた君はなんだか疲れて見えたからね。そんな状態で重要なことを決定しない方が良い。大事な作品だから、よく考えてほしかったんだ」

 図星だった。探偵は意外と体力がいる。勤務時間は不規則で、張り込みや尾行が長時間に渡ることもざらにある。夜の眠りが浅いせいでまぶたを閉じていても夢と現は曖昧だった。

「それで、どうかな? ちょっとした気晴らしになると思うんだ。シナリオの直しに苦戦しているみたいだけど、出歩けば何か発見があるかもしれない」

「まあ、確かに……」

 じゃあ決まりだ。キャリバンは笑った。

 墓場は案外怖い場所ではない。

 墓地の近場に公園を設け、生者と死者をつなぐ癒しの場としての機能を持たせているところもあれば、国内外から多くの人々が訪れる観光地として親しまれている場所もある。

 海辺の墓場もそのような場所のひとつだ。

 海岸近くに共同墓地がある。海を見下ろす高台に墓地があり、火葬場と礼拝堂が併設されている。誰でも出入りが可能で、一見すると公園のような作りになっている。墓地から海岸まで歩いて向かうことができ、広大な敷地内には展望デッキや芝生の広場、カフェや駐車場などが設けられ、散歩や子供達の遊び場などに利用している人も多い。波や鳥の声が絶えず響いているが、不思議な静けさを抱えている場所だ。日帰りで行ける距離にあり、気分転換にはちょうどいい。

「それに、ちょっと心配だったんだ。仕事柄、調査で長時間拘束されるのはよくあるだろうけど、その分休みを取っていないように見えたからね」

 どきりとした。多分、わざと忙しくしていることを見抜いている。

 キャリバンには観察癖がある。近すぎず、遠すぎない距離から注意深く対象の動きや性質を捉えようと試みるのだ。様々な役を研究し演じてきたからこそ無意識に行っているある種の職業病だろう。観察の間はほとんど瞬きをせず、眼差しからは愛情めいたものさえ感じられる。時折その癖が自分に向けられていたとしてもあえて取り上げなかったが、真正面から受けると妙にたじろいでしまう。

「一応休みの日だってあるよ」

「そう? 今も深く眠れていないみたいだから、つい気になってね」

 キャリバンは上着の内ポケットから名刺を取り出し、懐かしそうに眺めた。それは劇場で渡した仕事用の名刺だった。

 

 彼が拠点にしていた劇場は廃墟同然だった。中に入ると、埃まみれの地面、色あせたポスターに汚れた壁、さらには割れた窓ガラスの隙間を雑に埋めた新聞紙が来訪者を出迎える。

 この劇場は悪魔崇拝を行なっていた集団が悪魔を呼び寄せるために生贄として観客と演者を巻き添えにし、数多くの失踪者を出した近現代最悪の違法悪魔召喚事件の現場だった。つい最近まで封鎖されていたけれども、劇場を含む地域一帯を文化拠点地として再開発する話が持ち上がり、建物の状態を確認する調査が入ったのだ。いかなる人間も劇場に入ってはならないという決まりが取り払われたことで、肝試しにやってくる人も激増したという。

 多数の犠牲の上に行われた悪魔の召喚は怪異対策協会の介入によって阻止されたが、生贄になってしまった人々と悪魔を崇拝していた集団は劇場から忽然と姿を消した。肉体だけでなく、魂ごと悪魔が別の世界に引きずり込んでしまったのではないかと噂されているが、真相は未だ明らかにされていない。そして、何十年もの時が経ち、この劇場には幽霊が出ると噂されるようになった。どうやら悪魔の生贄になった役者の恨みがこの世にとどまっているらしい。劇場の所有者は幽霊にも肝試しに訪れる人間にも手を焼いているようで、人間への対処は警察に任せられるが、幽霊にはお手上げだと鼻を鳴らした。そして私が呼ばれた。シナリオライターではなく、怪異専門の私立探偵としての仕事だった。

 怪異探偵はニッチな職業だが依頼は尽きない。得体の知れない存在が関わるようなことであれば何でも調べあげる。そのため、依頼人は一般市民から行政に至るまで幅広い。名刺をばらまいてきたせいか、知り合いの知り合いに名刺が渡り、面識のない人からも連絡がやってくる。劇場所有者からの依頼もそのような案件のひとつだ。依頼内容は夜中に劇場ホールから聞こえる男の声の正体を突き止めることだった。地域の再開発に合わせて劇場は解体が決まり、工事担当の業者が作業員を集めているが、幽霊騒ぎのせいで難航している。工事を進めるためにもさっさと除霊してくれ、と依頼主は苛立たしげに言っていたが、基本的に除霊の依頼は受け付けていない。探偵は調査業であって退治屋ではない。

 眠気が忍び寄るまぶたを擦りながらホールへと進むと、幽霊は暗闇の中で復讐鬼を演じていた。舞台上でじっと観客席の暗闇を見据える目には、悲しみと憎しみが混じり合ったような荒々しさが宿っていた。まるで天に反旗を翻そうと企む地獄の悪魔のようだった。

「時は来た!」

 私が向けている懐中電灯の光にも気づかないまま、劇場の幽霊は続けた。

「恐れ慄き、影に隠れ、牙を失った弱き者に成り下がったと奴らは思っているだろう。だが、それは全くの間違いだ。炎はいまだここにある! 私の魂が堕落したとて、それが何だと言うのだ? 狂気にまみれているのはこの世界の方だ……! ならば世界を支配し、敗北を与えて嘲笑ってやろう。私の飢えを癒すのは奴らの破滅のみ! 今こそ復讐の時だ!」

 言葉が途切れると、先ほどまでの激情の火が小さくなり、憂いを帯びた深い眼差しにがらりと変わった。

 復讐に燃えるも、どこかやり切れない表情をする男の過去に一体何があったのだろう。続きを渇望している自分に気がつき、ある確信を抱きながらステージを眺め続けた。

 主役は彼に演じてもらおう。リビングデッド役は彼が適任だ。

 だから、思わず声をかけてしまった。

「あの、シチュボに興味ありませんか?」

 わっと驚いた声がした。劇場の幽霊は眩しそうに目を細め、ライトから逃げるように後ずさり、怯えた様子でその場にうずくまった。

「ごめんなさい、邪魔をしちゃって……」

 返事はなかった。私は再び舞台の下から大声で呼びかけた。

「私は依頼を受けて調査に来た怪異専門の探偵です。劇場の解体前にホール内から聞こえる声の正体を突き止めてほしいと言われて……」

「怪異……?」

 男の肩がびくりと震えた。

「僕を退治するつもりなのか?」

「いや、退治や除霊はやってないので。これ、私の名刺です」

 男は顔を上げたが、差し出された名刺をじっと見つめたまま、すぐには受け取ろうとしない。

「……光をどけてくれないかな。強い光が苦手なんだ。ここは暗いから余計に……」

 私は慌てて光を自分の足元に向けた。

「ありがとう」

 男は名刺を手から引き抜き、ゆっくりと立ち上がった。礼を述べる声は柔らかく礼儀正しい青年そのもので、先ほどまで演じていた復讐鬼の姿はどこにもない。

 ステージに上がるよう声をかけられ、私は言われた通りにした。

 近くで見ても、物腰の柔らかそうな印象は変わらない。長身で、眼差しは優しげだが、目の下に疲れが浮かんでいるせいでくたびれて見える。自分よりも七、八歳ほど年が上だと思われるが、もういくつか離れているかもしれない。

 男はしげしげと名刺を眺めている。

「あらし。探偵さんか……」

「あなたが劇場の幽霊?」

「そう呼ばれているんだね」

 否定も肯定もせず、観客席に目を向けた。

「この劇場、すっかり廃れてしまったから演劇を観に来る人間はいないと思っていたけど、最近出入りが多いから変だと思っていたんだ。僕が幽霊騒ぎの原因になっていたんだね。すまないことをした」

「そういえば、名前は?」

「キャリバン」

「キャリバンはどうしてここに?」

「役者だったんだ。記憶は曖昧だけど、演じた役はなんとなく覚えているから練習していたんだよ。さっき見たと思うけど、悪役を演じることが多くてね」

 キャリバンの足元に視線を向けると、懐中電灯に照らされた彼の体に影は寄り添っていなかった。幽霊であるのは間違いないが、妙な違和感がある。体は透けておらず、一見すると生きている人間のようだ。この類の幽霊は怒りや恨みが人一倍強く、周りに不幸をばらまく悪霊だと知られているが、彼からはそういった感情がうかがえない。先程の演技力でもって隠しているのだろうか? しかし、それも違うように思える。

「ところで、キャリバン。さっきの演技、とっても素晴らしかった。最高だった……」

「あ、ありがとう。そんなに感動してもらえるなんて光栄だよ」

 噛み締めるように伝えた賛辞に戸惑いを見せていたが、ややあってわずかに微笑んだ。

 やはり憎悪は感じられない。こちらを騙そうとしているわけではなさそうだ。

 私は意を決して声を張り上げた。

「キャリバン、お願い! 今書いてるシチュボに出演してほしいの……!」

「シチュボ……?」

 キャリバンは怪訝な顔をした。無理もない。

「シチュエーションボイスの略だよ。ええと、あるシチュエーションに沿って主人公が聞き手に話しかけているセリフを収録した音声のことで、作品によっていろんな設定があるんだけど、自分に話しかけられているような臨場感を味わえるのが特徴なんだ」

「初めて聞いたな」

「キャリバンには主人公役をやってほしいの」

「僕に?」

「うん、どうかな? あっ、そうだ、何か希望はある? 出演料とか……」

「いや、いいんだ。演じる機会があるだけで十分だよ。それより……」

 キャリバンの暗い瞳がじっと私を覗き込んだ。

「一晩眠って、それでも僕に依頼したいというなら考えるよ」

 どうして眠らなければいけないのだろう。思いがけない形で遭遇したこのチャンスをみすみす逃すような真似はしたくなかった。

 首を傾げた私にキャリバンは優しく言った。

「君、あまり眠れてないだろう。今だって深夜に歩き回っているし、それにここは寒くて暗い。睡眠不足が重なれば判断が鈍る。一度休んでよく考えるんだ」

 キャリバンは足元に視線を向けた。

「それに、僕にも時間が必要だからね。実を言うと少し怖いんだ。僕は悪霊になってしまったから、以前のように芝居をして人に喜んでもらえるとは限らない」

「少なくとも私は喜ぶよ」

「ありがとう。……とにかく、君はまず休んだ方がいい。ゆっくり眠るんだ。いいね?」

 思わず彼の腕を掴んでいた。

「じゃあ、夜明けまで一緒にいて。家に台本があるから、読んでから決めてほしい」

 私はキャリバンを劇場から連れ出した。

 それから間もなくして解体工事が始まった。

 

 墓場の見学はキャリバンの意欲を大変かき立てるものだったらしい。「試しにやってみようか、冒頭の墓場のシーン」と思いがけない言葉をもらった。声の調子は穏やかだったが、やけにきっぱりとした響きを持っていた。

「浜辺に行こう。人が少ないしね」

「ねえ、キャリバン。あれもやって! 劇場でやってた役」

「うん、いいよ」

「ありがとう! もう一回見たいと思ってたんだ」

「気に入ってくれて嬉しいよ」

「私、悪役が好きなんだ。諦めの悪い姿を見ていると元気が出るんだよね」

 砂浜は静まり返っていた。柔らかい砂に足を取られてうまく進めない。夢の中の歩行みたいだ。ふらふらとおぼつかない様子はまるでゾンビだ。足元ばかり見ていても、キャリバンの視線が幾度も向けられているのが気配でわかる。

 数分歩いたところでキャリバンは急に立ち止まった。

 顔を上げると、彼は四方を見渡していた。周囲に人影はなく、波が白く砕けながら打ち寄せていた。寒気が全身にじりじりと浸みとおり、冷たい空気が肺を満たした。

「ここで読み上げるよ」

 キャリバンは静かに歩み寄って囁いた。両手は空っぽで、台本らしき紙の束はどこにもない。

「直す前のセリフでも良い?」

「……覚えてるの?」

「そりゃあね。毎日読んでいるから」

 台本を押しつけた日から一ヶ月ほど経過していることにはたと気がついた。キャリバンを音声作品制作に巻き込んだあの大胆さはどこからやってきたのだろう。振り返っても首を捻るばかりで答えは出ない。睡眠不足のせいで暴走していたのか? それとも、劇場の暗闇で見た、復讐に意欲を燃やす悪役の熱を分け与えられたのか? かつての世界征服のように?

「主人公は人間から怖がられている存在だから、人と接するのにあまり慣れていない。口調は冷たくても遠ざけたいわけじゃない。心に傷を負って戸惑っているだけ。そう意識してやってほしい」

 彼がセリフを読み上げると頭の中で動いていた登場人物の輪郭がよりはっきりと捉えられるようになる。目の前に確かに存在すると思わせるような魔力があり、天上から生活を垣間見る秘密の共有者になった気分を味わえる。

 セリフを読み終えたキャリバンを見上げながら、人は感動すると歓声を上げたくてもすぐに出てこないものだと思い知らされた。

 海を眺めていた彼の視線がそっとこちらに向けられた。友人を労り、励ますような不思議な眼差しがあった。目に見えない柔らかなガーゼに包まれている感覚が、体の表面だけでなく心に抱えた暗い熱にも寄り添った。眠気がどっと押し寄せ、困惑しながら目元を擦った。

 冬の底は骨まで浸み込むほどの寒さを携えていたが、不思議と目覚めは遠い。睡魔を振り払おうとしたが、一方で、墓場で体を横たえればぐっすり眠れるだろうかと甘い空想に目が眩む。死の影を手繰り寄せたいわけでない。求めているのは安息だ。悪夢は冥界まで追って来ないだろう。雪の気配を含む白っぽい灰色の空は墓石に似ている。

 キャリバンは恐る恐る口を開いた。

「……どうかな?」

「す、すごい……! 頭の中で思い描いていた主人公が本当に目の前にいるみたいだった!」

「それはよかった」

「キャリバンが丁寧に物語を汲みとってくれたおかげだよ」

「……あらしがそばにいると安心するよ。劇場にいた頃は僕を見て逃げ出す人ばかりだったからね。怖がらせてしまうのなら暗い劇場でずっと一人でいるしかないと覚悟していたよ。正直、また演じられるのか僕にもわからなかった」

 そう呟く表情は平然としていたが、口調はどこか寂しげだ。

「たまに思い出すんだ。観客席から悲鳴が上がったとき、僕は舞台にいてライトを浴びていた。何が起こっているのかわからず呆然としていたんだ。何もできずに……。あの日からずっと光が怖い。明るい光の向こうで恐ろしいものが待ち構えている気がして……」

 キャリバンは痛みを訴えるように、胸元をきつく掴んだ。

「喜んで舞台に上がっていた自分が、どんどん知らない自分になる。深い心の奥底で、ひどい苦しみが地獄の炎のように渦巻いている。いつかその激情に飲み込まれて悪霊から別の何かになるんじゃないかと恐ろしいんだ」

「何かって?」

「悪霊よりもたちの悪い怪物だよ」

 氷の鞭のような風が吹きつけた。後退りした瞬間足がもつれ、思い切り転びそうになったが、キャリバンに抱きとめられた。腕がぐるりと体に巻きついて少しだけ苦しい。

「君の物語のおかげでまた前を向くことができた。それでも、拭いきれない不安がつきまとっている。光の向こうで蠢いていた恐ろしい存在のように、僕が得体の知れない怪物になってしまったら……」

 言葉は続かず、潮風にさらされて彼の喉は錆びついてしまった。強くしがみついても震えは抑え難く、自らを打ちのめす混乱も鎮まらない。

 私はゆっくりと背を撫でた。傷に薬を擦り込むように、注意深く何度も繰り返した。

「キャリバンが怪物になっても見つけるよ」

 職業柄、人探しは得意だ。退治は専門外だからうっかり現世から追いやることもない。

「また物語を持って会いに行くから。怪物になってもシチュボ作ろうよ」

「人間の言葉を話せなくなっていたらどうする?」

「一緒にやれることはまだまだあるよ。今日みたいに墓場に行って海を眺めるだけでもきっと楽しいから……」

 わずかに体が離れ、互いの視線がようやく交わった。悪夢にうなされているような怯えきった瞳に、一瞬夜明けの光が宿った気がした。

「ずっと辛かったね。目に見える幽霊にしては妙におとなしいと思っていたけど、苦しみがあるとわかってむしろ安心したよ。気づけなくてごめんね」

「いや、いいんだ。あらしが謝ることではないよ」

「……自分の苦しみを見てあげるのは本当に大変なことだよ。己の怒りや悲しみに自覚のない幽霊だっている。生者も意外と気づかない」

「あらしも……」

 キャリバンはぼそりと呟いた。

「あらしも言葉では言い表せない、ただただ暴走するだけの異様な感情に支配されたことはある?」

 少し考えた後、彼の胸に顔を押しつけて、くぐもった声で言った。

「世界征服をしたいと思ったことならあるよ」

「世界征服?」

「うん。子供の頃、世界征服がしたかったんだ。結局うまくいかなかったけどね」

 今でも夢に見る。息苦しい教室の中で、子供が泣いている。かつてのクラスメイトだ。彼女は飼っていた犬を亡くしたばかりだった。家を訪ねたことはなかったが、彼女の足元に遊んでほしそうにじゃれついている犬の姿を見て、大事にしていた家族に違いないとすぐにわかった。いつも明るい彼女の元気が見当たらなかったから、励まそうとしただけだった。すぐそばで見守っていると伝えたかった。でも、傷つけただけだった。姿なんてどこにも見えない、意地悪したくてそんな嘘を言っているのかとなじられた。嘘つき! とクラスメイトは叫んだ。嘘つき!

 体の熱が一気に冷めて、心臓に痛みが走る。違うと伝えたくても声が出ない。

 その日から私は見える幽霊になる。こちらの存在を強く意識しているのにあからさまに無視をされる。いっそのこと私の姿も見えなくなれば良かったのだろうか。亡霊に親しみを抱く日々が続き、学校の七不思議や都市伝説を扱う児童書を手にした。生きているように見える幽霊は生者に災いをもたらす存在だと知る。私は悪霊だった。

 休まずに学校に通い続けたのは、別に私が強かったからではない。世界征服を企んでいたからだ。

 悪霊にも世界征服ができるかもしれない、と勇気づけてくれたのはアニメの悪役だった。

 世界征服を目指す悪の組織の一員である彼は、正義の味方に何度も敗北し番組の最後で必ず逃走する。それでも翌週にはけろっとした顔をして再び戦いを挑む。諦めの悪さに感銘を受け、こっそり心のお守りにしていた。何事にも挑戦してみようかな。話しかければまた仲良くなれるかもしれない。幽霊が見えるからなんだと言ってやろうかな。嘘つきじゃない、本当のことだよ。世界征服をしよう。そうすれば、誰も私を無視できないはずだ。

 しかし、悪役は夢半ばで物語から消えてしまった。正義の味方に倒されたのだ。私はしばらく呆然として再びただの亡霊になった。物語を書き始めたのはその頃からだった。悪役の彼が生きていると想定し、様々な物語を紙に書きつけた。悪役と彼の仲間、もしくは正義の味方との会話を黙々と書き出していく。頭の中ではまだお守りは生きていた。その遊びが今まで続き、シナリオライターになった。

 私の世界征服は失敗した。悪役は地球を支配すると言っていた。悪役に憧れた私にとって、地球と同じくらい教室は大きかった。

「……時々うなされているのはその夢のせい?」

 もうあの時の自分とは違うと思っていても、夢の中で言い返せない。眠るのが怖い。怪異を扱う探偵になって人助けをすれば呪いを振り払えると信じていたけど、全然うまくいかない。疲れ果ててベッドに横になれば夢を見ずに朝になる。もっと良い方法は眠らないことだ。調査は大半が夜中だから、暗闇を動き回れば眠らずに済む。

「いつも悪夢を見ているわけじゃない」

「平気な顔をしないで」

 不意に腕に力が込められた。

「僕もあらしも、目覚めているはずなのに、悪夢の中にいるみたいだね」

 強い眠気がまぶたにのしかかる。キャリバンにしがみついていないと今にも崩れ落ちてしまいそうだ。波が引いて押し寄せるように意識は朦朧として、立っているのが精一杯だった。

「君は君の悪夢を生きる。僕は悪夢を完全には取り除けない。それでも、それぞれの悪夢に立ち向かって協力できたらどんなに良いだろうと考えるんだ。そうすれば、いつか夜明けが、悪夢が薄らぐ日が……」

 キャリバンが軽く背を叩いた。寝かしつけるような仕草にますますまぶたが重くなる。絆創膏をそっと貼りつける心遣いに似た、柔らかな祈りが寄り添った。

 本当はずっと眠りたかった。墓場を思わせるような静かな場所で、誰にも咎められることなく、果てのない安らぎに昏々と沈んでしまいたかった。

 無言の願いを聞きとったまどろみがひたひたと忍び寄り、穏やかな休息が満ち始める。

「少し休もう。夜明けまで一緒にいるから」

 遠くで波の音が聞こえる。眠りの海は灰色だった。