二人だけの密室

 君は頑張り屋さんだね。努力家で真面目で、それに勇敢だ。あとは……。

 レコーダーから流れる音声を聴いて、強く目を閉じる。

 やめなければと思うのだが、そう強く思う度に閉じられた空間での記憶を何度もなぞってしまう。じくじくと痛む心を抱え、息苦しさをこらえて涙を流しながら、心を騒がすのは師匠に対する罪悪感なのか、ある男の声を得たいという熱望なのか、もうわからなくなっていた。

 

「こんばんは。君も怪異調査?」

 男はいつも眠たげだった。暗い森の中に身を置いても怖がる様子はひとつも見せず、のんびりとした口調で青年に話しかける。

「……そうだけど」

「やっぱりそうか。もしかして部屋の調査を?」

「まあね。あんたも?」

「ああ。近頃変な部屋に取り込まれる事案が発生しているみたいでね。情報提供者が遭遇した場所に来てみたってわけさ」

 生命が溢れているはずの森は夜になると異様な姿を見せる。やけに静かだ。枝に残った葉が風で揺らぎ囁き合ってもおかしくはないはずだが、あたりは静まり返っている。ポケットの中でレコーダーを起動させたが、怪異らしき音声は捉えられていない。ねじれ曲がった樹木と地を覆う枯れ葉を一瞥し、青年は冬の冷気にそっと肩をすくめた。

 森を歩いていたはずなのに、気がつくと別の空間に飛ばされている。そのような怪異の報告が怪異管理事務所に複数寄せられていた。部屋のような場所に突如として連れて行かれ、条件を達成しないとそこから出られない。解放条件はその部屋による。報告書の記載内容はほとんど似たり寄ったりで、人間に害を与えるようなものではない(解放条件が非常に易しいのだ)ため、しばらく放って置かれた事案だった。しかし、遭遇件数が増えるに従い、事務所も無視ができなくなった。通常であれば担当調査員に指名された者が怪異の正体を突き止めにいくが、青年はその指示が出る前に事件現場へと向かった。

 奇怪な事件をいち早く解決すれば、またお師匠様が僕を使ってくれるかもしれない。対立関係にあるもう一つの怪異事務所からも調査員が派遣されるだろうが、誰よりも早く解決してしまえば問題ない。有能さをアピールして、お師匠様の右腕にふさわしいと証明するのだ。

「だから、見捨てないで、お師匠様……」

 青年は意気揚々と現場にやってきたが、すでに先客がいた。目の下にクマを抱え、眠そうに遠くを見つめている男が森の中に立っていた。

 青年は男の名前を思い出せなかったが、顔は見覚えがある。ライバル会社のボスの側近だ。師匠とその会社のボスは同級生ではあるが仲が悪く、青年は師匠にならってライバル会社の職員たちを敵視していた。側近は眠たげな男以外にも数人いるが、一番目立たないのがこの男で、普段は裏方の仕事ばかりしているのか表舞台に出てくることは少ない。主に怪異調査を担当していると聞いたことがあるが、先を越されるとは思ってもいなかった。

 青年は男を睨みつけたが、心にあるのは目の前の人間ではなく師匠のことだった。

 青年が従者の役を解かれてから半年が経っていた。

 元々師匠の右腕として活動し、師に付き添い様々な怪異事件を解決してきたが、他事務所で経験を積み帰還した同僚にその立場を奪われたのだ。

 いや、奪われたという言い方は語弊がある。なにしろその同僚は優秀で人をまとめる力があり、素早い判断力と決断力を備えていた。そのため部下から信頼を得るのも早く、右腕としては何の問題もない逸材だった。それに、その同僚を右腕に使うと決めたのは師匠自身であった。

 師匠は青年に言った。お前には無理をさせた。これからは私のためではなく、自分のために時間を使ってくれ。

 理解ができなかった。今まで憧れの人の元で頑張ってきたのに、その人自身に努力を全て否定されたような気がしてしまったのだ。確かに元来自分は人前に出たり部下を指導したりするのは苦手な方だが、右腕として活動する中で克服したつもりだった。それに対し、同僚は何でもそつなくこなし、苦手なことなどないような振る舞いを見せる。苦痛を感じず何事も成し遂げる、自分とは真逆の存在。師匠にとっての幸せは自分の幸せであるから、同僚を右腕役にして仕事が一層進むのならこれほど喜ばしいことはないだろう。だが、師匠にとってもう自分は必要のない存在だと思うと、どうしていいのかわからなくなる。自分のために時間を使えと言われたが、何をしたいわけでもない。休暇を与えたつもりなのだろうが、心はひとつも休まらないでいる。自分はお師匠様の隣にはもういられないのかと思うと、じわりと目の端に涙が溜まった。

「もっと頑張らないと……」

 部屋に関する怪異を解決し自分だけの手柄にしようと思っていたのに、よりにもよってライバル会社の側近が相手では分が悪い。飄々としているが、師匠が彼の実力に一目置いていた様子からするに、調査員として大変優秀なのだろう。

 青年の眉間の皺がさらに深くなったが、逃げ帰るわけにはいかなかった。彼を出し抜けば師匠からの評価もさらに高いものになるだろう。

 青年は大きく息を吸い込み、刺々しい口調で男に話しかけた。

「僕の邪魔しないでよね」

「ああ。もちろんそのつもりだよ。でも、ここは一緒に協力した方がいいんじゃないか。報告書を見ると、二人でよくわからない空間に閉じ込められている事例がほとんどだからね」

「発生条件は二人組ってこと?」

「いや、一人の場合もあるが……」

「複数人の方が怪異に遭遇しやすいなら、お兄さんはどうしてもう一人連れて来なかったの?」

 眠たげな表情が強張り、鋭い眼差しが青年に向けられた。

「もう誰も巻き込みたくないんだ」

 青年は男とほとんど毎晩調査を続けたが、怪異は現れなかった。

 二人は少しずつ会話を広げていった。当初、青年は頑なに口を閉ざしていたが、「君のお師匠さんが誉めていたよ」と何気ない男の呟きに気を良くしてしまい、聞かれてもいないのに師匠の自慢をしたり、二人で解決した怪異について喋り出したりした。男はいつものように気の抜けた表情で話を聞いていた。

「お師匠様はもう僕のことなんてどうでもいいんだ。でも、今回の怪異事件を解決すれば、きっとまた必要としてくれる」

「お師匠さんは君を遠ざけたかったわけではないよ。君を心配しているんだ。頑張り続けることは大事だが、休みなく動いていたら体を壊してしまうしね」

「そんなはずは……」

 優しげな瞳に見下ろされると妙に居心地が悪い。だが、不思議と彼の言葉は心地よく感じられる。夜の森は闇に包まれていたが、何事にも動じず穏やかに言葉を紡ぐ男は小さな灯のようで、そばにいると温かな安らぎに沈んでしまいそうになる。同業の敵対者に好ましい感情を抱いてしまうなんてどうかしていると、青年はむっとした顔つきになった。

 調査を続けて数ヶ月が過ぎた頃、男は謎の空間転移事件から手を引くと告げた。事務所の意向だそうだ。発生件数は相変わらず増え続けており、より大きな機関が担当することになったため、今夜で調査は最後にするときっぱりと言い放った。

「君もこの件から手を引いた方がいい」

「どうして? こんな噂になっている怪異を見逃すわけにはいかないよ」

「心配なんだ」

「心配だって? ふん、面白いことを言うじゃないか。僕はいくつもの怪異事件を解決してきた。これからもそうだ。お師匠様と一緒じゃなくたって、僕はやれるんだ。僕はそれを証明して……」

「怪異を甘く見るな。条件を満たすまで出られない空間を作り出す強大な力を持っているのなら、閉じ込められたが最後、まず外からの助けは望めない。厄介な部屋に当たってしまったら一大事だ」

 男は青年の腕を掴んだ。決して離しはしないと強い意思を感じさせる力に、青年は一瞬ひるんだ。

「離せよ……!」

 男の手を引き剥がそうとしたが、彼の手は宙を彷徨った。突然目眩に襲われ、強く目を閉じる。

 深く息を吸い込み、こわごわと目を開けると、周囲は白い壁で囲まれていた。窓がなく、床も天井も白一色の異様な空間だった。森の中にいたはずだったが、木々はどこかへ消えてしまい、恐る恐る足踏みをしてみても木の葉を踏み締める音は響かない。部屋の中央には「お互いの良いところを三つ言わないと出られない部屋」というメモが置かれていた。

 

 部屋を出るのは簡単だった。あの空間に滞在したのは多く見積もっても十数分だろう。

 青年はレコーダーの再生時間を眺めながら、男の記憶を手繰り寄せた。

 白い部屋の中で困惑の表情を浮かべ、いつもの眠たげな顔つきを消し去った男は言った。

「部下を怪異事件で失っているんだ」

「えっ?」

「怪異を追い詰めたつもりが、こちらが追い込まれていた。私は助かったが、その部下は行方不明。今もどこにいるのかわからない。真面目で何事にも一生懸命で、自分が怪異を退治するんだと明るく言っていたよ」

 男は手をきつく握りしめた。青年はただただ男を見上げることしかできなかった。

「もう二度とあんなことは……。誰も失いたくないんだ」

「僕があんたの敵であっても?」

「敵? ああ、君のお師匠さんとうちのボスは犬猿の仲だろうけど、私たちまでそうある必要はないだろう」

 お師匠様の敵は自分の敵だ。そうであるはずなのに、男の心に踏み込んでしまいたいという欲求がじわじわとわき起こる。

 気だるい眼差しの奥に何が眠っているのか、覗き込んで知ってしまいたい。

「ここから出よう。協力してくれないか」

「……協力してほしいなら僕の言うことを聞いて」

 そっとポケットに手を入れ、レコーダーの録音ボタンを押した。

「三つじゃ足りないよ。僕の良いところを五つ以上言って」

「お安い御用だよ」

 男は青年に近づいた。

 距離が縮まったことでますます見上げる格好になり、青年は思わず一歩後退った。

「三つも五つも難しいことではないよ、私にとってはね」

 あの部屋から解放されて一週間が過ぎ去った。あれは夢だったのではないだろうかと何度も考えたが、レコーダーの記録が嘘ではないと告げている。

 もう一度あの部屋に閉じ込められたい。そう願っている自分がいた。男と共に、誰にも認識されない空間で、時を過ごしてみたい。奇怪な部屋にいる間は、あの男と会っていることなどお師匠様にも分からない。

 怪異から逃れられたはずが、いまだに付きまとわれているようでぞっとする。だが、青年には別の恐怖があった。男に会いたいと願うのみならず、自ら彼の元へ足を運んでしまうのではないかという恐ろしい予感だった。

 怪異に遭遇したあの日から男とは顔を合わせていない。

 ただ誉めてほしかったのだ。頑張ったな、とお師匠様に一言言ってほしかった。お前がいてくれたおかげで助かったと笑顔が見たかった。お師匠様が笑顔を浮かべられるように、何事かを成し遂げたかった。

 しかし、今はどうだ。師匠ではなく、敵対する男の言葉に縋っている。録音データを消すことができず、繰り返し繰り返し再生してしまう。男のそばで安らぎを得たい。しかし、師匠を裏切りたくはない。

 胸を押しつぶさんばかりの後悔に苛まれながら、青年は窓を見つめた。

 墨のような重い雲が空一帯に立ち込めていた。

 

 男は相も変わらず眠たげだった。大きなあくびをこぼし、ゆったりと会社の玄関を出て足を進めている。霧のような雨が顔に降りかかり、しかめ面をした。足元は灰色に変わりつつあるが、手に傘はない。「まいったな」と一言こぼし、頭を掻いている。

 細かい雨が降る中で、ようやく男と視線が交わった。地面から顔を上げた男の気の抜けた表情が驚きに変わる。傘も差さずに現れた自分を幽霊と見間違えているのかもしれない。冗談のひとつも言いたかったが、ぬるく湿った空気が喉を締めつける。

 急ぎ足で駆け寄る男をただじっと見つめていた。

「こんばんは。どうしたの?」

 青年は答えなかった。

「顔色が悪いね。何かあった?」

「お願い。誰もいないところへ連れて行って」

 助けを乞うようにして、男の上着を掴んだ。涙で視界が滲み、男の顔がよく見えない。

「私の部屋で話そうか。ここから近いんだ」

 二人が玄関を潜った頃には、雨は土砂降りになっていた。どちらの上着も水気を含み、毛先は額や首筋に張りついてしまっている。

「タオルを取ってくる。温かい飲み物も用意するから、少し待っていてね」

「ここにいて」

 男は怪訝そうに眉を顰めた。

「どうかしたのか?」

「あの部屋が忘れられないんだ」

「……怖かった?」

「違う。また閉じ込められたいと思ってしまうんだ。あんたと一緒に……」

「私と?」

「声が聞きたくて、だから、もう一度だけ言って。あの日と同じことを」

 青年は嗚咽を漏らした。

 やってしまった。自ら男に会いに行って、一緒にいてほしいとねだってしまった。こんなこと、お師匠様にどう説明したらいいのだろう。いや、説明なんかできっこない。自分はどうかしている。よりにもよって敵対者に縋りつくなんて。

 俯き、滲む視界をそのままにして男の答えを待つ。いつものように眠たげなのか、困惑を露わにしているのか、うかがい知ることはできないが、二人だけの密室を作ってくれるに違いないとわかるからこそ、恐ろしくてたまらない。

 しばらくして、淡々とした、しかし柔らかな声が届いた。

「何度でも言うよ」

「うう……」

 後悔に抉られながらも、安堵は瞬く間に心に満ちていく。

「お師匠様……」

 青年は涙声で呟いた。

「お師匠様には、秘密にして」

「ああ、そうしよう」

 男から差し出されたハンカチを受け取り、青年は涙を拭った。

 ゆっくりとドアに手を伸ばし、玄関の鍵をかけた男の姿をはっきりとした視界に捉えた。