おじから贈られた物語の中で、私は初めて悪魔を見た。その児童書には挿絵がなかったが、実物を見ずとも確かに頭の中に存在した。クラスメイトとうまく会話ができなくても、悪魔とはいつでも友達だった。広大な海を眺め、見晴らしの良い山々に登り、様々な街へと出かけた。悪魔と自由に歩き回れるのは世界を征服したからに違いない。この世界では親からも友人からも気味悪がられることはないのだ。私と悪魔は最強だった。空想は私たちに優しく寄り添った。
多くの天界・魔界出身者が人間界で暮らすようになった現在では、悪魔学はそれほど忌み嫌われておらず、むしろ相互理解のために積極的に学ぶようにと言われているが、私がまだ幼かった頃、悪魔に向けられた視線は冷たいものだった。人間を誘惑し、たぶらかす悪い存在だとの認識が一般的で、悪魔使いのおじを親は「普通ではない」と言った。おじは不良とつるんでいると思われたのだろうか? おじは母の弟にあたる。名を月影(つきかげ)という。あちこちを転々として落ち着きのないおじに母は時折文句を言うこともあったが、定期的に連絡をとっていたところを見ると、それなりに心配はしていたのだろう。だが、おじの話をするときの言葉の端々に現れる鋭い冷たさを目の当たりにすると、どのような反応を示していいのかわからなくなってしまう。きっと、悪魔を好む自分も「まとも」ではないのだろう。そう思ってしまったが最後、悲しみの蛇口が開きっぱなしになってしまうのだ。どうにか栓を閉めようとするが、なかなか手が届かない。届く日があったとしても、握力が足りず全く動かせないでいる。
私はますます無口となり、おじからの贈り物を抱えてより一層悪魔との冒険に思いを馳せるようになった。
本物の悪魔に会ったのは、世界征服の空想にふけるようになってから一年後のことだった。おじの悪魔は真っ黒な毛に覆われた大きな狼だった。名をロウバイといい、おじはパートナーを「ロウ」と呼んだ。
その日は親戚が一堂に会していたが、周りは大人ばかりで遊び相手がいなかった。一人でいるのは慣れっこだったが、流石に飽きがきてしまう。家でも学校の繰り返しだなんてなんとなく寂しい気もした。大人たちの中で一番年が近いのがおじだったが、それでも二十ほどは離れていただろう。おじはおおらかな表情で皆と話していたが、こっそりとあくびを噛み殺しているときもあった。
「眠いの?」
「いいや」
「……じゃあ、一緒に遊ぼう」
クラスメイトには言えない言葉が、おじの前だとすらすら音にできた。
私の声に、おじは嬉々として立ち上がった。飲み込んでいたのはため息だったのだろうか。親戚の輪から離れるきっかっけができたので、これ幸いと相手をしてくれたのかもしれなかった。
「キリ、ちょっと手を貸してくれないか。ロウが撫でられたがっている」
庭に出てすぐに、おじのコートの裾から狼の悪魔が現れたのだった。
二人は月の光が降り注ぐ肌寒い夜に死闘を繰り広げたそうだが、最終的には友達になったのだという。随分とドラマチックな話だが、嘘のような本当の話である。
「火を吹く狼なんて初めて見たよ。おかげで服が焦げてしまったけど、それに気づいたのは太陽が昇ってからだった。僕たちには服よりも気にしなきゃいけないことがあってね。そう、腹だよ、腹。夜通し戦って互いに腹が減ってしまってね、バーベキューをしたんだよ。炙ったマシュマロがおいしかったんだ」とゲラゲラ笑いながら思い出に浸っていた。ひとしきり笑ったあと、「焦がすなら服より甘味に限るね」と付け加えた。
ロウの毛先は影のように揺らめいて、小さなろうそくの炎を思い起こさせた。触れるとぬくぬくとした柔らかな感触が手の平に広がった。
「僕のパートナーは銀河一かわいい」
それがおじの口癖だった。おじは地球人なのに銀河のことを知り尽くしている。宇宙飛行士になって旅をしていたのか? いや、まさか、おじの正体は宇宙人で、地球の侵略を企んでいるのだろうか。
私はロウにそっと耳打ちした。
「ロウは宇宙から来たの?」
悪魔は宇宙空間でも息ができるのかもしれない。一緒に天体を見て回れたら退屈しないだろう。誰にも邪魔されない日々が淡々と続けばいい。空想の舞台に宇宙が加わった瞬間だった。
ロウは大きなあくびをした。舌も口の中も真っ黒で、まるでブラックホールだ。光さえも抜け出せない黒に頬や顎を舐められたが、私の体は飲み込まれもせず、地球上に残ったままだった。
「おじさん、ロウとはどこで会ったの?」
ロウは地面に寝転がって腹を見せ、早く撫でろと無言で訴えている。
「森の中」とおじはゆったりとした口調で答えた。
どうやらロウは宇宙狼ではないらしかった。
悪魔との宇宙旅行はまだまだ先の話かもしれないが、旅立ちは心躍る瞬間のひとつだ。宇宙船からの景色を想像せずにはいられない。暗闇に浮かぶ鮮やかな青からどんどん離れて冒険へと出かけるのだ。悪魔と一緒なら怖くない。なんせ私も悪魔も最強なのだ。旅を続けていれば、宇宙服を身につけずとも息のできる惑星がどこかで見つかるかもしれない。ここは宇宙空間でなくとも息苦しい。おじはどうだろうか。
「おじさんは世界征服をしたの?」と私は恐る恐る尋ねた。
おじは目を見開いたが、すぐに穏やかな表情へと戻った。
「どうしてそう思ったんだ?」
「悪魔と遊び回るには世界を征服しなきゃいけないから」
「ふうん?」
「悪魔を好きでいてもいい世界って、悪魔と悪魔使いが認められた世界なんだよ。征服したに違いないよ」
この惑星は過ごしづらい。世界征服を実現しなければ居場所がないからだ。
秘密にしていたけれど、あなたは遠い星からやって来た宇宙人で、地球を征服する運命にあるのよ。けれども潜入調査はてんでうまくいっていないみたいね。そう明かされても驚きもしなかっただろう。意地の悪いクラスメイトは、私の正体を見破っていたのかもしれない。
おじは顎に手を当てて考え込むような仕草をしたが、次第に口元が緩んでいった。私の問いを面白がっているのは明らかだった。
「世界征服も魅力的だがね、せずとも悪魔と一緒にいられるさ。他人から承認を得ずとも我々はすでにここにいるのだからね」
私はおじのおかげで世界征服をせずに済み、銀河の片隅で暮らしている。
「面白いぞ」と得意げに手渡されたあの児童向け小説の作者がおじ自身だと知ったのは、成人し悪魔使いになってからしばらく後のことだった。
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