世界が終わるその日まで

 先ほどまで深く眠っていた青の瞳に夢は残ってない。

 男はその澄み切った目を覗き込むと、夜と海を一気に手に入れたような気分に浸った。深い青は穏やかな海でもあり、闇色の夜でもあった。ざざ、ざざ、と潮騒が忍び寄り、夜空に浮かぶ星々の輝きを潜ませている。シーツを握りしめ、怯えを宿し、じっと黙り込んでいる青へと男は無意識に手を伸ばす。頬を触り、喉元に指先を運んで柔らかな温もりを楽しんでから、この夜と海に溺れて眠ってしまえたらどれほど心地良いのだろうと想像する。煙立つ濃密な甘い夢の底へ沈んでしまいたいと思うのだが、その気配はどれだけ待っても訪れない。

 

 世界征服を目指しこの世を滅ぼさんと悪魔に魂を売った男が、青の魔法少女を基地に閉じ込めてから数ヶ月が過ぎた。

 平和を望む意思の強い瞳は光を受けると鮮やかにきらめいた。彼女は決して目立つ存在ではなかったが、周りの状況を冷静に分析し、仲間たちをサポートしながらしぶとく生き残った。戦い慣れてはいなかったが、誰かの悲鳴が聞こえれば危険を顧みずに声のする方へ向かう勇敢さを備えていた。男は多彩な青に惹かれていた。臆病そうに見えるが決して諦めない心を持ち、傷ついた者へ手を差し伸べる優しき青。あの青を思い起こすたびに男は、世界が滅亡するその日までずっと戦っていたいと心を弾ませた。

 男は元は人間であったが、悪の道へと踏み出してからは人間ではなくなっていた。魂の代わりに力を得ると悪の組織の一員として活動したが、一方で、魔法少女たちも人間ではない存在から力を与えられて戦っていた。目的は異なるがあの青の魔法少女も自分と同じではないかと男は思った。だが、決定的な違いは、魂を売り渡していない点であった。魔法少女たちは戦いが終われば普通の人間に戻るのだろうが、世界滅亡を阻止できると本気で思っているのだろうか? 魔法はいつか解けるものだ。勝利ではなく、敗北を味わう瞬間に。

 彼女を連れ帰ったのは雪が降りしきる寒い日だった。閉じ込めておくための部屋も真っ白で、雪原を無理やり押し込めたような歪さのある場所だった。外の様子を一切うかがい知ることのできない異常なほどの静けさで支配されていた。

「倒れた仲間がどうなったか気になるのか? 君が庇ったあの魔法少女が無事に帰路についたのか知りたいんだね。君はこんな状況にあっても、周りにばかり目を向けているんだな。助けに行かなければと気がかりなのだろうが、ここには誰の悲鳴も届かない。君はじきに仲間のことさえ忘れてしまうだろう。君のそばにあるのは私の声だけだ」

 魔法少女が沈黙を貫き通したために部屋の静けさは一層目立った。彼女が声を失ったと知ったのは、閉じ込めた翌日のことだった。雪が解け、春が訪れても声は戻らなかった。

「わからないな……」

 男は肩をすくめた。

「ここは安全で、狙われることがない。それに、誰の悲鳴も耳に入らないというのに、何を不安に思う? 君を脅かすものは何も……」

 散々争ってきた敵対者に向けて、安心を促す言葉をかけた己をせせら笑った。

「見てご覧。外はもう春の日差しで満たされている」

 男は抱えていた花束を渡そうとして片膝をつき、魔法少女を見つめた。ベッドの上で震えている青は首を振って拒絶を示した。その瞳は濡れていた。

 ああ、この青だ、青、夜の色、海の色だ。この夜に、この海に沈んでしまえば、互いに離れることはない。

「ここにいれば、世界が終わるその日まで君と戦っていられるんだ……」

 男は花束から花弁をむしり取って口に含み、青の魔法少女へと与えた。飲み込むのを確認すると、またひとつ含み、口付けて繰り返し春に染め上げた。苦しげな息遣いが聞こえる。男は微かに笑う。

 終わらない夢をずっと見ていたい。夜と海を腕の中に閉じ込めて眠りにつこうとするが、夢の気配はどこにもない。